潮院長余話(81話~

  1. 第81話「虫の話」
  2. 第82話「熟医」
  3. 第83話「めまい」
  4. 第84話「エスカレーター」
  5. 第85話「学校の耳鼻科健診」
  6. 第86話「かすれ声」
  7. 第87話「プリン写真集」
  8. 第88話「耳と涙」
  9. 第89話「電車通学」
  10. 第90話「耳性帯状疱疹と耳痛」
  11. 第91話「医師の視線」
  12. 第92話「舌炎と舌癌」
  13. 第93話「嗅覚障害」
  14. 第94話「クーラー病」
  15. 第95話「血液型」
  16. 第96話「腰痛」
  17. 第97話「突発性難聴」
  18. 第98話「幼児医療の恐ろしさ」
  19. 第99話「謹賀新年」
  20. 第100話「余話100号記念」
  21. 第101話「予知能力」
  22. 第102話「レディーファースト」
  23. 第103話「傷つけられたプライド」
  24. 第104話「パトカー」
  25. 第105話「地震予知」
  26. 第106話「私と医師会」
  27. 第107話「私とゴルフ」
  28. 第108話「医学部教育」
  29. 第109話「私の勉強」
  30. 第110話「五十年一日」
  31. 第111話「納得出来ない事」
  32. 第112話「解剖実習」
  33. 第113話「私は悪筆」
  34. 第114話「私は音痴」
  35. 第115話「耳つまり感」(耳閉感)
  36. 第116話「性善説 性悪説」
  37. 第117話 「藤沢医師会ゴルフ部との出会い」
  38. 第118話 「ホールインワン」
  39. 第119話 「院外処方箋」
  40. 第120話「アレルギー性鼻炎」
  41. 第121話「医学部推薦」
  42. 第122話「愛犬プリン」
  43. 第123話「逃亡者」
  44. 第124話「喫煙」
  45. 第125話「鵠沼海岸」
  46. 第126話「銀ブラ」
  47. 第127話「アルバイト」
  48. 第128話「早慶戦」
  49. 第129話「入浴」
  50. 第130話「路傍の犬」
  51. 第131話「私は騙されない」
  52. 第132話「飛行機」
  53. 第133話「怒り心頭」前編
  54. 第134話「怒り心頭」後編
  55. 第135話「煎餅屋」
  56. 第136話「防空壕」
  57. 第137話「イチロー」
  58. 第138話「若き日」
  59. 第139話「胸部大動脈瘤 青天霹靂」

第81話「虫の話」

 先日、耳の中がガサガサするという患者さんが来院。拡大鏡で診察すると、耳の中に黒い虫がうごめいている。硬性鏡で写真撮影してから、耳垢と共に鉗子でつまみ出した。小さな蜘蛛だった。耳垢のために奥に入れなかったのが患者さんにとって幸福だった。

数年前、カナブンが耳の中に入り込み、爪で鼓膜をひっかいているために、おとなの患者さんが泣きながら受診したことがある。耳の中に麻酔液をたらし、カナブンをねむらしてつまみ出した。残念ながらその時の写真はない。
そういえば、虫にはいろいろな思い出がある。
小学校1年生の時、季節は記憶にないが、鵠沼海岸の波打ち際がキラキラ光輝いているのを見たことがある。夜光虫の襲来とのことだった。古ぼけた夏休みの絵日記を探し出した。何しろ古いものなので、はっきりしていない。しかし、その不思議な美しさは記憶の中では鮮明だ。

私が小学校5年の時に太平洋戦争が終わった。昭和20年(1945年)8月15日の事だ。
私は当時、鵠沼海岸の海岸線134号線沿いに住んでいた。終戦の翌日、鵠沼海岸の水平線を米国の軍艦が埋め尽くしているのをみて驚いた事をはっきり記憶している。
そして、当時、134号線は一車線で、その横に松の木に囲まれた遊歩道があった。今よりも家もまばらで趣があったが、季節によっては遊歩道を歩けないほど松毛虫がうごめいていた。

当時はひどい食糧難。薩摩芋とカボチャが最高ご馳走で、良質なタンパク質などなかった。そのためか、この松毛虫をフライパンデ炒めて食べられないかと真剣に考えたこともある。

私が、慶応高校(日吉)に通学していた頃、東横線の日吉駅から高校の校舎までの広い道路は立派な銀杏並木に囲まれていた。高校時代の楽しかった思い出の一つだ。然し、7月頃は、銀杏並木の下に無数の銀杏の虫が落ちていた。歩くのが気持ち悪いくらいだった。しかし、クラス会等で学友達に聞くとそんな記憶はないという。「矢野君が余程の虫嫌いだからそのような妄想を記憶しているのだろう」と、そっけない。私は彼等の記憶力よりも私の方がすぐれていると思うのだが証拠がない。
日吉の事は知らないが、今の鵠沼海岸の松林に毛虫はみあたらない。藤沢市で消毒しているらしいが、その現場を目撃した事がないので不思議だ。

2016年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第82話「熟医」

 私は子供の頃から本を読むのが好きだった。
幼小児期は漫画(のらくろ上等兵など)、小学校高学年の頃は、亜細亜の曙、二十面相、アルセーヌルパン等を夢中で読んだ。中学・高校の頃は世界の名文学、恋愛小説に熱中した。その後は世界のミステリー小説を殆ど読破した。特に、エラリークインミステリーは今でもその内容・謎解きを覚えている程だ。その後、司馬文学のとりこになり、司馬遼太郎全集を3回以上くり返し読んだ。典型的な“司馬中毒”だ。最近は曽根綾子氏のエッセイを愛読している。

さて、以下本題に入る。
私のように、50年近く善行の地にクリニックを構え、診療をし続けていると、開業当初の患者さんが、久しぶりにみえる事がある。
「待合室で先生の元気そうな声がしてほっとしたわ。先生まだ現役なの?懐かしい!」。“開業医冥利につきる”と、考えながらも、顔をあわせると互いに年をとったとつくづく思う。
そこで、シーボルトオイネ(日本最初の女医・1827年~1903年)を主人公にした花神(司馬遼太郎著)の中の名言を思い出す。オイネが子供の頃に帰国してしまった父親のシーボルト(ドイツ人医師)に晩年再会する場面だ。
そこには、オイネが写真で目に焼き付けていた若い青年医師の姿はなく、老人が立たたずんでいるだけだった。

久しぶりに見えた患者さんもそう感じているのだろうか。私は歳月を重ねたぶん、診療経験を深めている。会って良かったと思って頂きたい。
再び司馬遼太郎氏の代表作・燃えよ剣の一節に、“人は皆老いる”、とあるが、私は老いたのではなく熟したのだと思う事にしている。青二才の医師よりも経験豊かに熟した医師の方が信頼出来るだろう。

2016年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第83話「めまい」

 夏の猛暑が終わり、疲れが出る秋口になると、めまいの患者さんが急増する。
先日、BSテレビでVERTIGO(めまい・1958年初上映)の映画をみた。この映画は高所恐怖症のため、メマイに怯える主人公が主役のサスペンスドラマだ。めまい症の講義を受けていた医学部高学年の頃、東京日比谷の映画館で大勢の同級生と共にこの映画をみた記憶がある。
さて最近、季節に関係なく何となく、めまいを訴える患者さんが増えたような気がする。若い方も多いので、高齢化社会のためとは一概にいえない。やはり、社会の複雑化、それに伴うストレス、睡眠不足、過労の方が多いからだろう。
めまいの詳細については、私のホームページの病気の説明の項をお読み頂きたい。
めまい発作では面白い実話がある。20年位前の事だ。藤沢市医師会の大先輩(内科医・故人)から直接うかがった話だ。その方が伊豆のゴルフ場で急にめまい発作に襲われ地面に倒れた。瞬間、脳出血?脳梗塞?の発作を連想したという。しかし、それは単なる地震のゆれのためだった。そして数年後、今度はご自分のクリニックで診療中、激しいゆれに襲われた。地震だと思い、スタッフに逃げようと言ったら、「地震などありません。どうしたのですか?」、と言われたという。今度は本当のめまいだった。軽症なめまいだったので笑い話で終わった。
スポーツ選手のめまいで有名なのは、元サッカーの澤穂希氏の良性発作性めまいだろう。この病気についても、病気の説明の項をお読み頂きたいが、このめまい発作の根本的治療は頭部の運動療法だ。澤氏が頭部の運動療法を受けたかどうかは私は知らない。
又、私の知人(医師ではない)が、回転寿司で寿司の回転を見ているうちに、めまいがしてきたという。彼は、「寿司の回転がめまいの原因だ」、というので私は彼をたしなめた。「寿司の回転を見てめまいがしたのではなく、たまたまめまい発作をしている君が回転寿司に入ったのだ。」
私自身は、第五話(私の禁煙体験記)に述べた脱タバコ(禁煙)を実行し時に激しいめまいの襲われた経験がある。

さて、メマイの診察の第一段階は、Frenzelの眼鏡を使用し、患者さんの眼球動揺を拡大して観察することから始まる。
慶応大学病院耳鼻咽喉科に勤務していた頃、友人の医師が、めまいの患者さんを診察しながら、「トンボに静かに近づけてメマイをおこさせると簡単にトンボを捕まえる事ができる。拡大して眼球をみると、人間もトンボも同じようなものだ」と、患者さんの前で言ったため、教授にひどく怒られていた事を思い出した。

2016年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第84話「エスカレーター」

 先日、ある一流新聞の投書欄にエスカレーターの混雑を緩和するために、左側に並ぶのが原則で、右側は急ぐ者のためにあけるべきだという意見が掲載されていた。尚、8月発行の某週刊誌にもエスカレーターの乗り方が特集されていた。
急ぐ人がエスカレーターの右側を駆け上がるためだという。私はこの意見には大反対だ。五体満足な人の傲慢な意見だという他はない。
高齢化社会の到来と共に、肢体不自由な方が増えている。四肢の不自由な方は勿論、高齢のためにステッキを使用している方は空いている方の手で、ベルトを持たなければならない。
知人(85才の女性)は、幼児期に罹患した小児麻痺(ポリオ)の後遺症による左手完全麻痺、左下肢の不全麻痺のために、右側のベルトをつかまなければエスカレーターを利用できない。駅構内のエレベーターは一カ所のために、混雑時はそこまで歩いて行く事も大変だとこぼしていた。
エスカレーターを駆け上がれるような人は階段を走ればよいのだ。ウサインボルトになれなくても、自分の脚力増加に大いにつながるだろう。

そして、自分の体に異変が起こった時、私の言葉が理解できるだろう。
 そこで、かなり前のカナダ旅行の事を思い出す。私がカナダのバンクーバーで、心を打たれたのはその美しい景色でもなく、食事のおいしさでもない。バンクーバーを散策して直ぐに気がついたのは、町中に、車椅子の人が非常に多かったことだ。日本に比べて、肢体不自由な人が多いのではなくて、町の造作がバリアフリーになっているため外出しやすいからだろう。そして町の人々がさりげなく車椅子の人に手をかしているのが印象に残った。

そして、帰国するための客船に乗る時、デッキから港にかけられた急斜面のタラップで乗船するために行列していた私の前に、車椅子の老婦人が介助の若い女性と共に並んで居た。その二人は桟橋の急斜面に困惑している様子だった。

私も手を貸したかったが、私自身、車椅子を押し上げる自信がなかった。その時、行列の後部にいた男性が、その急斜面を苦もなく車椅子押し上げ、何事もなかったようにタラップをおりて来て、行列の後部に戻った。私は、体力の差とはいえ、その青年のかっこ良さに見とれた。彼の手はどこからともなくあらわれた天使の手に違いない。例え、体力があった若い時代であったとしても、私は彼と同じ行動をとれたかどうか自信はない。
それに反して、某大学病院の院内で、車椅子の患者さんが廊下を曲がれずに難渋していた時、廊下を通る医師も看護師も誰も手を貸さなかったと云う話を聞いて哀しくなった。
 カナダの風景の美しさよりも、人々の心の優しさに感動した私は、それ以後、矢野耳鼻咽喉科の雰囲気に“カナダ風の心優しさ”を少しでも取り入れるように試みている。

体の不自由な方、極めて高齢な方、六ヶ月未満の赤ちゃん、妊婦さん、付き添いのお母様が妊娠しているお子さんは、正規の順番より早めに診察するようにしている。
 又、受験生は貴重な勉強時間を無駄にしないように待ち時間を短く配慮している。

後記;
*知人のカナダ在住の日本人に確かめたが、カナダでは日本より助け合いの精神がはるかに進んでいるという。

*大阪以西は、エスカレーターには右側に乗るのが原則だという事を聞いたが正確な事は知らない。

2016年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第85話「学校の耳鼻科健診」

 毎年、10月から11月にかけて新入学児の学校健診が行われる。
春には在校生の健診だ。
私の開業当初は、藤沢市内の耳鼻科医が少なかったためか、8校の耳鼻科校医を仰せつかった。その頃は今のような少子化時代とは異なり生徒数も多かった。
耳鼻科健診は、両耳、鼻、咽喉、発声異常も一人で診なければならない。それに比べて眼科健診は児童に直接触らず、「アカンベー」をしてもらい結膜を覗くだけだ。その理由は、10年以上前にある地方で、眼科医が健診時に児童の目に触ったために、伝染性の強い流行性角結膜炎が多数の生徒に感染したためだという。

小児科や歯科は二人の医師が派遣されて健診を行う。そのため、耳鼻科健診はいつも終了が最後になってしまう。

さて、別記の表で一番問題になるのは、耳垢垢塞だ。耳垢垢塞(耳垢)があると、我々耳鼻科医も児童の鼓膜を見ることができない。
健診で耳垢垢塞を指摘されると、家族の方が耳垢除去をする人が多いが非常に危険だ。鼓膜を診ていないのだから自覚症状のない滲出性中耳炎の有無は確認されていない。学校のプール、スイミング教室の可否にとって非常に問題だ。
又、アレルギー性鼻炎、副鼻腔炎、扁桃肥大を指摘されたら、学童の将来にとって非常に問題だ。一度は耳鼻科校医を受診することが必要だろう。保護者の方が、耳鼻科校医の門を叩かずに、「水泳可」の印鑑を押すのは無責任極まりない。
余談になるが、私が慶應病院に勤務していた時、都内の某高等学校の耳鼻科健診に行ったことがある。言っては悪いが非常に柄の悪い高等学校だった。列も作らず私語が多くて健診をやっていられない。
私も若かったのだろう。「こんな学校の健診はやっていられない!」と、言って大学に帰ってしまった。数日後、校長先生から大学に再度の健診の依頼があった。大学の医局長からもう一度健診に行けと命令された。再度その学校に行って驚いた。その高校の応援団が勢揃いして、学生達を整然と並ばせ、私語を交わす生徒を怒鳴りつける。実に静かに健診を行うことができただけでなく、校門まで見送りしてくれた。応援団が甲子園の高校野球以外にも役立つことを初めて知った。
最後に感動的な思い出をご紹介する。私のような医師会の古株になると友人知人が多くなる。その中で最も尊敬する1人の医師・小島先生(故人)のエピソードを書く。学校の先生方と学校医の話し合いの時の小島先生の発言を私は生涯忘れることはできない。「自分は健診の前にその校舎の周辺を歩き、学校の衛生状態を観察してから健診をはじめる。そして、健診が終わってから、学校の先生方と児童の健康状態について、ゆっくり話しあいたい。その時間が重要だ。」
それ以来、私は小島先生を藤沢医師会で最も尊敬に値する方だと思っている。
小島先生と私は容貌が似ているらしい。電車の中で一回、看護学校で一回、小島先生と人違いされた事がある。

2016年11月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第86話「かすれ声」

 私は、声楽家の美しい声はわからないが、声のかすれた患者さんの発声異常は敏感に聞き分けることができる。

先ず、我々耳鼻咽喉科医は人それぞれの声の特徴に耳をかたむける必要がある。そして、正常な声か病的な声かを注意深く聞き分けなければならない。そして修練の結果、喉頭炎、声帯ポリープ、声帯結節、喉頭腫瘍が出来ているかどうか聞き分ける能力を持つことが出来る。専門医としての修練のたまものだ。勿論喉頭ファイバースコープで喉頭を必ず精査することは怠らない。

勤務医時代、著名な浪曲士の主治医をしたことがある。修行時代の浪曲師は、夜明け前に人里離れたところで声を張り上げてあの不思議な声を出し、酷使して声帯をつぶして一人前になるのだそうだ。その浪曲師が公演中の旅先から、発声異常の相談をしてきた。電話で浪曲を聞かしてくれるのだが、電話で的確にアドバイスするのは難かしい。相手がプロだけに責任が重い。大きな声を出さないように指示したら、それでは商売にならないと嘆いていた。
もう20年程前のことだが、私の同級生の耳鼻科医が横浜市の病院に勤務中、“電話で声がれの相談”を受けるコーナーを設けたことがある。相談者に“あいうえお”をゆっくり発音していただき、音声分析器をとうして、彼の専門医としての聴覚で異常かどうかを判断する。病的であると判断したら、耳鼻咽喉科専門医を受診する必要性をアドバイスするシステムだ。彼の退職でそのコーナーは終了された。
私はあまりテレビを見ないが、ある民放のキャスターの声がれが気になり、耳鼻咽喉科の受診をすすめる電話をテレビ局にしようと思ったが、個人の病気の事など電話するのは止めたほうが良いという副院長の進言で中止した。数ヶ月後そのキャスターはテレビ会から姿を消した。
音を聞き分けると言えば、現役大リーガー当時の松井秀喜選手がスランプに陥った時、国際電話で長嶋茂雄氏にバットの素振り音を聞いてもらい、アドバイスを受けてスランプを脱したという。

2016年12月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第87話「プリン写真集」

 本屋さんの店頭で、「世界で一番美しい犬の図鑑」という本を目にしたが、私は手にとらなかった。我が家のプリンチャマが“世界一美しい犬”と思っているからだ。真に世界一美しい犬(私はプリンを犬と思ってはいないが)の写真集を掲載する。

2017年1月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第88話「耳と涙」

 中耳炎は急性中耳炎、滲出性中耳炎、慢性中耳炎、真珠腫の4種類に分類される。耳鼻科咽喉科専門医は微細な鼓膜の変化から診断する。

慢性中耳炎は最近の耳鼻科治療の急速な進歩で激減したし、真珠腫は特殊な病気なので、ここでは取り上げない。ホームページの病気の説明をお読み頂きたい。
急性中耳炎:いわゆる鼻カゼの合併症として、急激に起こる病気だ。
乳幼児、保育園児、幼稚園児の圧倒的に多い。
カゼをひいた幼児の不きげん・夜泣きは、発熱を伴わくても中耳炎のサインのことが多い。耳鼻科専門医の診察を受ける必要がある。

滲出性中耳炎:痛みを伴わないために、ご両親は気づいていないことが多い。不機嫌、夜泣き、耳をいじる等のしぐさは滲出性中耳炎のサインだ。やはり耳鼻科専門医の受診をおすすめする。

勿論、急性中耳炎と滲出性中耳炎の相互間の移行も多い。
私の長年の経験で、歴然とした滲出性中耳炎でさえ、小学校の高学年になっても当人な何ともないと証言する。面白くもない耳鼻咽喉科受診が嫌なのだろ。学校健診で指摘されても否定するのがほとんどだ。中学生になるとさすがに自分の健康が心配になり、自分から診療を求めてくることが多い。
成人は、こどもと逆に、患者さんの訴えのほうがが強い。成人の滲出性中耳炎では、我々が仔細に鼓膜所見を読み取り、聴力検査、鼓膜の振動検査を行ない「治りました」、と告げても耳閉感を訴えるために、我々は悩まされる。
乳幼児にも成人と同じ不快感があるはずだが、ご両親が気付くのは困難だ。そのため、乳幼児の鼻カゼが長引いたら、耳鼻科専門医に鼓膜所見をチェックしてもらうことが重要だ。そして、急性中耳炎も滲出性中耳炎も全快するまでには日数がかかる。抗生剤の内服、鼓膜切開が必要なこともある。そして、抗生剤の投与方法が難しい。耳鼻咽喉科学会の中耳炎の治療ガイドラインでは、ペニシリン系の薬剤を先ず投与するべきとあるが、私の経験ではペニシリン系薬剤は下痢をする可能性が高いので使用しにくい。又、初診から3日分投与して、4日目から次の治療方法を考えろと書かれているが、御夫婦共働きの多い昨今では、保護者が初診後3日で乳幼児を連れて診療できる人は一握りだ。ガイドラインにそった治療は不可能だ。
私が慶應病院に勤務していた時は、癌の患者さんが多くて、中耳炎の患者さんを診たことは殆どなかった。
治療のガイドラインを作る大病院の学者達よりも、小クリニックの医師のほうが中耳炎の診断、治療になれていると思う。

上の写真は右耳の激痛で一晩眠れなかった6歳のお嬢さんの鼓膜だ。
以前、鼓膜切開を私がしたことがあり、こども心で切開すると痛みがとれる事を覚えていたらしく、「我慢するから早く切ってちょうだい」、と私の前に飛び込んできた。切開すると、ふるえながら「どうもありがとう」と、お礼を言って帰って行った。当人が生まれつき非常にしっかりしているのか、ご両親のおしつけが良いのか私にはわからない。多分両方だろう。
最後に、最近経験した涙が出そうな悲劇をご紹介する。
私のところを受診した2才未満の患者さんが、親戚の人に連れられて受診した。診察の結果ひどい急性中耳炎だった。不機嫌で毎日のように泣いたために、心無い母親が子供に暴力をふるって、虐待罪で告発されたという。やりきれない話だ。

2017年2月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第89話「電車通学」

 2013年3月、N700Aには定速走行装置も導入された。東海道新幹線の最高速度は270キロの新幹線が建造され、東急東横線の渋谷駅が大改築された。
渋谷駅の変化の賛否是非が巷間論議されているようだ。自分のクリニックに引きこもり、藤沢からほとんど外出しない私の生活には無縁のことだ。
然し、その私も電車で苦労したことがある。古い話になるが、第二次大戦中、鵠沼海岸に住み、慶応幼稚舎(小学校)に電車通学していた頃は、東海道線は私の生活に直結する生命線だった。言うまでもなく、JRでなく旧国鉄の時代だ。恐ろしいこと、楽しいことを限りなく体験した。
1944年頃(終戦直前)、母と、品川駅から下り電車に乗ろうと思った時、運悪く米軍の空襲に出会い、パニック状態となった群衆に踏みつぶされそうになった。その時、親切な駅員さんが、我々母子を危ないと思ったのだろう。手を引いて改札口でなく、駅員さんの部屋から特別に誘導して下さった。大混乱の中のことで、お名前も伺う暇もなく、お顔も覚えていないが命の大恩人だった事は感謝している。
戦後、慶応普通部(中学)時代、藤沢から品川へ毎日電車で通学した。今と違い電気機関車が湘南電車として走っていた。

ダイヤも滅茶苦茶で、車両も超満員だった。上りホームから遠く辻堂方面をみると。電気機関車のデッキに人がぶらさがり、その数が多いと、機関車の先端が膨らんでみえる。その膨らみ型で、電車が混んでいるかどうかを予想することができた。
超満員の客車にはドアから乗る事は出来ず、窓から座席に飛び込むのが普通だった。体が敏捷だったから出来たので今ではとてもむりだろう。その頃、富士駅から通学している猛者が、車両番号と決まった座席に座っていて、“窓から乗車”を助けてくれた。二人掛けの椅子に3人で座るのが常識だった。それこそ、押し合いへし合いの満員電車、夏もクーラーなどなく汗地獄だった。それども今のように痴漢の話も聞いた事がない。皆、生きていくのが精一杯だったのだろう。天蓋のない貨車に乗って、途中から雨が降り出しひどい目にあったこともある。
中学の時だった思うが、学校鞄を窓から落とし、次の駅から鞄を探しながら、線路沿いに枕木の上を歩いたことがある。運良く、線路補修していた人が鞄を保管していてくれて私の手に戻ったが、線路を歩いた危険行為を強く怒られた。その頃の私は今よりたくましかったのだろうか。両親に報告したかどうかは定かではいが、怒られた記憶はないので内緒にしたのだろう。

2017年3月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第90話「耳性帯状疱疹と耳痛」

 耳性帯状疱疹(ヘルペス)という病気がある。耳痛と、耳周囲の発疹を主症状とする。耳鼻科医がその対応に悩む病気だ。詳細についてはホーム頁の病気の説明欄をお読み頂きたい。 耳性帯状疱疹の診断治療の難しいのは、耳痛のみが初期の症状で、耳周辺の皮膚の発疹が数日遅れてる出現する事が多いことだ。

耳痛の患者さんの90%が中耳炎か外耳炎だ。それが該当しなければ、耳鼻科医は歯痛、ノドの炎症、顎の関節痛、肩こり等の筋肉痛、左耳痛の時は心臓の病気まで疑う。そして、その全てが否定された時、耳帯状疱疹の存在を頭にうかぶ。発疹が出ていれば診断は容易だが、耳痛のみで来院した患者さんが、数日後(翌日のこともある)発疹と前後して顔面神経麻痺を起こすこともある。そして治癒後に耳周辺の激痛と顔面神経が残る事もある。

それを予防するためには、一日も早く抗ウイルス薬を内服する必要がある。然し、発疹が出る前に帯状疱疹を確定診断することは容易ではない。当然、顔面神経麻痺等を予防するために、発疹が出る前から2~3日分の抗ウイルスを投薬して様子を見たいのだが、耳帯状疱疹と確定診断した後でなければ、健康保険法で抗ウイルス薬の投与は許されていない。しかも、抗ウイルス薬の投与は、最初から7日分の“まとめ投与”が義務づけられている。この薬は高価で、一般的な患者さんの負担額は薬代だけで6000円以上になる。2~3日分投与で様子を見る見切り投薬が許されていないため患者さんの負担額は大きい。
ある皮膚科医自身の耳が痛くなり、自分でその日から抗ウイルス剤を直ぐに内服し、翌日友人の耳鼻科医(私ではない)の診察を受け、耳は何ともないと言われたが、その翌日から顔面神経麻痺をおこした。さすがに心配となり其病院を受診したところ、脳梗塞といわれ入院、その翌日から耳の周辺に発疹が出現して、帯状疱疹と確定診断され退院。その皮膚科医は極めて初期に抗ウイルス剤を自分で内服していたために、比較的早く顔面神経麻痺も治癒した。その時、我々医師間で問題になったのは、その皮膚科医のように耳帯状疱疹(ヘルペス)の確定診断がつかないうちに、抗ウイルス剤を投与するべきかどうかだった。患者さんの経済負担を考えると安易に結論は出せない。
又、私の知人の医師が夫婦で外国旅行中、帰国する5日前に夫人の額に帯状疱疹が出来た。海外の事で薬の入手がままならず、我慢して帰国。今でも疼痛で悩んでいる。その話を聞いてから、私は正月等、薬局が長期休みの時は、帯状疱疹の薬をかりて自宅に保存しておく。
聞いた話だが、抗ウイルス薬が開発され前、帯状疱疹の激痛がとれず、自殺した人があるという。

2017年4月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第91話「医師の視線」

 最近、「はしご受診は医師にも責任」、と題した読者の投稿を一流新聞で読んだ。この投稿の趣旨は、「自分の病気がどのくらいで治るのか、今後の治療はどうなるのかを、具体的に相談したいのに説明してくれない医師が多い。更に、様子を見ましょう、もう少しかかるでしょう、という医師のあいまいな言葉に不満を感じる。又、視線を合わせないで、横を見て話をする医師が多い。」、ということのようだ。
この投稿者の意見は、一部正しく、一部正しくない。勿論、高度の精密検査を一刻も早く行い、病因を早く突き止めなければならない場合もある。然し、病気には自然治癒することも多いので、「少し様子を見ましょう」、は決して無責任な言葉ではない。更に例をあげると、例えば高齢者の腰痛を診察した時、一生治りませんよと突き放すことは、患者さんを一気に奈落の底に突き落とすことになる。もう少しかかるでしょうとぼやかすのは、私は医師の無責任とは思えない。癌などの悪性度の高い病気はそれなりの対応をしなければならない。
反面、顔を向けて話しをしてくれない医師が多いという患者さんの不満が増えたのも事実だ。“横を見て話をする方が患者さんの心をやわらげる”、と信じている非常識きわまりない医師もいる。これは論外だ。最近の医師は患者さんに向き合い説明する時間が十分にとれないことも事実だ。いざと言う時の医療訴訟防止のために、カルテの記載を十分にしなければならない。又、この頃多く導入されている電子カルテになれていない医師は、キーボードを打つ行為に悪戦苦闘で患者さんに向き合う暇がないという。しかし、電子カルテの進歩も著しい。近い将来、私のクリニックにも電子カルテを導入する予定だが、電子カルテに使われるタイピストにはならず、患者さんと視線を合わせて話す人間らしい医師であり続けたいと思う。
ここまで書いて、20年以上前のエピソードを思い出した。藤沢市医師会の学術講演会(耳鼻科医会ではない)に出席した時、演者(某大学教授)が、医師は病気の説明をする際に患者さんの顔を見て話しをするのは良くない。患者さんは、ただでさえ医師に緊張して接しているのだから、目を合わせないようにして対話するべきだ。
演者の話に私は絶対に反対だ。講演終了後、質問しようと思ったが、耳鼻科学会ではなくて、他科の講演会だったので、その方面の質問が殺到した。残念ながら私には質問する時間を与えられなかった。
人と話をする時、相手の眼を見て、話をするのが礼儀の基本だ。
私達は、やましいことがない限り、相手の眼をみつめてものを言えと教育されている。

非常識な教授の言葉に私は小さな怒りさえ感じた。尚、講演の最後を教授はくだらないジョークで締めくくった。
「恋人の顔をまともに見て、プロポーズはしないだろう。それと同じだ。」

追記:最近、視線という言葉を使わず目線という言葉を使うようになったようだが、私は目線よりも視線の方が正しい日本語のような気がする。基本的なマナー、日本語も共に崩れていくのが嘆かわしい。
尚、北アフリカのある地方では初対面の人と話をする時は、視線を相手の顔でなく、頸の辺りに会わせるのが礼儀だという話を聞いた

2017年5月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第92話「舌炎と舌癌」

 口内炎、舌炎等の明らかな病気がないのに、舌の痛みを訴える患者さんが最近多くみられる。統計をとったわけではないが中高年の女性に多いようだ。
そして、複数の耳鼻科医、口腔外科医を受診している事が多い。所謂、ドクターショッピングだ。
この年代の方は、何かのきっかけで、心因反応(心配性)を起こす事が多いのだろう。
舌異常感は患者さんを悩ませるだけではなく、対応する我々耳鼻科医も悩まされる。舌異常感の患者さんは、頻繁に鏡で舌を観察して、僅かな舌の汚れ(舌の苔)を気にして、歯ブラシを使って、舌の表面を磨く事が多い。更に、ノドアメ、トローチ、スプレイ、うがい薬の使い過ぎは、余計に舌の異常感を強くする。私の経験では水道水でうがいするだけが良いようだ。
舌の表面の汚れを心配している患者さんには、私は自分の舌を出して、鏡で患者さん御自身の舌と見比べていただく。私の舌の方がよごれている事が多い。これで患者さんの安心を得られれば、こんな簡単な治療方法はない。この方法は、50年も前に慶応大学病院耳鼻咽喉科の教授から教わった方法だ。
本当の舌癌の患者さんを、我々耳鼻科開業医が診る機会は、数年に一人位の頻度だろう。
かなり前の事だが、私の後輩の耳鼻科医(大病院勤務医)自身が、舌癌ノイローゼになり、同僚の耳鼻科医の異常がないとの診断を信用せず、自分で指図して舌の組織検査を強要したという。結果は勿論異常なしだった。
古典的な耳鼻咽喉科の教科書には、マドロスパイプを常用している人に舌癌が多発し、その原因は、パイプの先が常に舌の同じ場所を機械的に刺激する事が、舌癌発生の頻度を増しているのだという。

今、考えるとニコチン毒がその原因だろう。

2017年6月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第93話「嗅覚障害」

 においは、鼻、口を通って入り、鼻の天井にある粘膜から脳に伝えられる。嗅覚障害(においの障害)は、鼻づまりを原因とする事が多い。
鼻づまりの原因は副鼻腔炎(ちくのしょう)、鼻ポリープ、アレルギー性鼻炎等があげられる。
治療には、鼻づまりの原因を取り除くための耳鼻科的治療が肝要だ。それで、快復しなければステロイドホルモンを点鼻することが切り札だ。下の図のように仰向けになり、約2ヶ月を目安に点鼻を1日に3回くらい続ける。

嗅覚が戻って来ても、点鼻を直ぐに止めず、様子を見ながら点鼻する回数を1日に二回→一回と段々に減らしていく事が重要だ。
ステロイドの点鼻薬に含まれているステロイドは微量なので、副作用を心配することはないし、自宅でできる便利な治療方法だ。
点鼻治療で十分効果が得られない場合は手術を考慮する。その場合には、嗅覚異常の程度を精密検査することが必用だろう。嗅覚検査は、聴力検査やめまいの検査のように簡単ではない。一般開業医には無理なので、私は大学病院に精査を依頼することにしている。勿論、大学病院の受診には紹介状が必用だ。
精査の結果、手術が必用な事もある。最近では、内視鏡による繊細な手術を行うことが出来るようになった。然し、手術後も、鼻処置や点鼻を続ける必用がある。
鼻を水で洗浄する事と、水泳はあまり良くない。
嗅覚の衰えは味覚の衰えとも密接な関係がある。食事を味わうこともできなくなり、

人生の楽しみも半減する。更に極論すると、無嗅覚症は火事の時に逃げ遅れの原因になる。嗅覚は愛する人への愛や懐かしさの記憶にも重大な役をはたす。発育中の新生児にはお母さんのにおいは生涯の思い出!

2017年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第94話「クーラー病」

 20年以上前、神奈川県内に頑固な内科医がいた。我々健康保険医は、保険法で定められた病名で保険請求をしなければならない。彼はクーラー病という病名を使用した。然しクーラー病という正式な医学用語はない。そのため役所から、上気道炎という病名で請求するように指示された。然し彼はクーラー病に固守した。その結果がどうなったか私は知らないが、彼の主張が正しいように思う。
私は寒さに弱いが、暑さには比較的強い体質だ。然し、今年の夏の暑さは特別だった。天気予報も毎日のように、熱中症の危険を報道し、特に夜間の熱中症の危険を強調している。その予防にクーラーの適当な温度設定の必要性を指示している。
然し、この適当という表現は無責任きわまりない。

私の寝室は個室だが、夜11時頃までは愛するプリン姫が私のベットを占領している。プリンが暑がりのため、室温を23度位に保たねばならない。そして、プリンを自室に戻してから、私は眠りにつくのだが、室温が下がりすぎているので冷房を消してから眠る。

明け方は暑くなるので、クーラーを付け直さなければならない。タイマーをセットすれば良いのだがなかなかうまくいかない。
先日は、クーラーをつけたままて寝てしまい、声がれと咳発作がひどくなり、完全に体調を崩してしまった。誰か、友達の医師の診察を受けようと思ったが、考えてみると自分がその専門家だった。

逆の話

旧診療所では、冬になるとは大きなガスストーブを使用していた。ストーブをつけ、診療を始めると数時間で激しい頭痛に悩まされる。その話を家内にすると、「ストーブによる酸欠じゃないの」と簡単に言われた。ストーブを変えると頭痛がしなくなった。

2017年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第95話「血液型」

 慶応医学部の講義で、生理学岡本助教授の第一声の厳しさは、今でも私の耳に残っている。
「このクラスの中で、血液型で性格が決まると思っている者は、医師になる資格はないから即刻退席せよ。」
科学的検証では、血液型と性格や気質との因果関係は今でも立証されていない。
又、血液型と病気は関連性がないと言われている。自然科学に属する医学会では、当然の事だが輸血の時以外、血液型は意味のないことだと考えている。ところが、書店には血液型占いを含め占いの本があふれている。
疑問に思い、出版業界の知人に質問したところ、世の中が不況になると、その種の本が売れるのだという。
血液型、占いの話は、たわいのない会話の興をあおる時とか、酒の席等で話題にするのなら無害だが、幼稚園、小学校のクラス分けに血液型を考慮する事もあると聞く。こうなると、くだらない事ではすまされない。関係者の反省をうながしたい。又、自分の血液型で将来の自分像をえがき、進路を決める若者もあるという。愚かな事は考えない方が良い。

結婚相手を決めるのに血液型を参考にするにいたっては論外だ。
重ねて言う。血液型は輸血の時に意味があるだけだ。その時のためには、自分の血液型はしっかり覚えておく必要がある。
アレルギー体質の患者さんの治療のため、アレルギーの原因を確かめるために血液検査をする事がある。どうせ採血するなら、ついでに血液型も調べて欲しいという患者さんの希望が時々ある。もっともなことだが、血液型の検査は、手術を前提とした時以外は、健康保険を使えない。
(自費の検査料金は1000円~2000円)
血液型の検査に、健康保険を使えないという細かく、意地の悪い事を考えた人の血液型を占ってみたいものだ。多分O型ではないだろう。

2017年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第96話「腰痛」

 最近、腰痛、骨折等で整形外科の治療を受けている方が多いような気がする。日本社会の高齢化のためだろうか。実は私も腰痛持ちの一人だ。私が若い頃、耳鼻科医は立って診療するものだと強く教わった。立ちながら、かがんで診察する耳鼻科医には、「腰が痛くなって一人まえ」、という心ない言葉さえ与えられていた。今では耳鼻科ユニットの改良、患者さんの椅子、耳鼻科医が座る椅子も電動化して

簡単に上下するため、耳鼻科医も座位で落ち着いて診察できるようになった。
今、私は自分の腰痛を若い頃の“勲章”だと思っている。

この原稿を書いている今日、100メートルを9秒台で走った日本選手のニュースがながれていた。彼等アスリート達の超人的な運動能力は限りなく羨ましい。
我々一般人は、駅の階段、道路の僅かな段差でつまずき、転べば簡単に骨折してしまう。知人の整形外科医に聞いたところ、雪の日の翌日は転倒骨折の事故が非常に多いという。

そして、意外なことに自宅での転倒事故、特に風呂場での転倒骨折が多いという。病気になるのは仕方がないが、不注意による怪我は大損だ。
几帳面な人は、掃除・雑巾がけ・草むしりのやり過ぎで腰痛になる事が多いようだ。何でも適当が信条な私は、腰を犠牲にしてまで部屋の掃除をする気にはなれない。

草むしりなども必要ないと思うのだが、世間の賛同は得られない。大体私は、草花と雑草の区別さえつかない。

2017年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第97話「突発性難聴」

 突発性難聴は、ある時、急激に起こる、原因不明の高度の難聴をいう。私達耳鼻科医が絶対に見逃してはいけない病気だ。

突発性難聴は、一側の耳に起こる事が殆どだ。今も、はっきりと覚えているが、若い女性の患者さんで、前夜眠る前は異常がなかったのに、朝起きたら完全に両側の耳が聞こえなくなっていたとの事、初診時に泣かれて困った事を思い出す。両側の突発性難聴を経験したのは、私の長い耳鼻科医の経験の中でその患者さん一人だけだ。
突発性難聴は一日も早い治療の開始が必要だ。治療が遅れると そのまま、高度の難聴が残ってしまう事が多い。
患者さん自身が、難聴を自覚しながら2週間以上放置した場合、又、耳鼻科医が直ぐに適切な治療を施行しなかった時、患側さんの耳が完全に聾になる事がある。私は高度の突発性難聴の患者さんは一日も早く、対応出来る病院に入院治療を依頼することにしている。入院治療を依頼する理由を次に説明する。
病院では、ベット安静約1週間、その間にステロイド等の薬剤を含む点滴療法、高圧酸素療法を行う。難治性の場合には神経節ブロックを行うこともある。
突発性難聴に似た病気で、急性低音型感音難聴という病気がある。
これを、突発性難聴と混同している耳鼻科医もいる。この病気は再発する事もあるが殆どの場合治癒する。これは、突発性難聴とは明らかに違う病気だ。
聴神経腫瘍(良性の脳腫瘍)も突発性難聴と同じような症状で発症することがある。私は、必ず脳神経外科に、脳の精密検査を依頼する。病診(病院・診療所)連携、診診(診療所・診療所)連携の必要性を強く感じる。
突発性難聴は、原因不明といっても、ストレス、疲労が発病の引き金になる事は間違いない。
唐突だが歌人正岡四季(1867~1902)も突発性難聴に罹患罹したと云う話がある。真実かうかは定かではない。
真実だとすれば、正岡子規も法隆寺法に着いた時は長旅の疲れで突発性難聴となり、耳鳴りを発症したのではなかろうか。正岡子規が病弱であった事を考えればまんざら嘘ではないかも知れない。

2017年11月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第98話「幼児医療の恐ろしさ」

 藤沢で開業する前、都内の病院に勤務していた時の事だ。幼児(2才)が耳痛と高熱で受診。そして咳発作が激しい。軽症の中耳炎と簡単に診断はついたが、高熱の原因になるとは思われない。私が診察する直前にかかりつけ小児科医を受診している。然し、私は肺炎が主病であると確信して、直ちにその小児科医に転送した。可愛そうに、そのお子さんは翌日なくなった。3才未満の幼児の肺炎は危険な経過をとる事があるので、入院治療するのが医学の常識だ。肺炎については、専門外である私もそれくらいの知識はもっている。
幼児の肺炎では、もう一回、貴重な体験をしている。
私の姪が2才の時に肺炎となり、近くの小児科名医の紹介で総合病院の小児科に紹介され緊急入院の上で治療をうけた。
熱もさがったので、一週間で退院を許可された。退院時に主治医から、母親が入院時の胸部のレントゲン写真と、退院時のレントゲン写真を提示され、肺炎の痕跡がなくなった事を得意げに説明されたという。車で帰宅したのでそのまま紹介して下さった主治医のお宅にお礼のつもりで伺った。近くの小児科医はその子をみるなり、ひどい脱水症状で命が危ないと言われ、その場で即座に点滴による水分補給をして頂き危ない所で助かったという。その総合病院の小児科医は肺炎を治したが患児を死なせる所だった。

2017年12月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第99話「謹賀新年」

2018年1月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第100話「余話100号記念」

 2009年11月に書き始めた私の余話が、今回で100号を迎えた。
私のように、“何でも適当に”を信条にしている人間が、人並み以上に続けているのはこの余話書きと本業の医療だけだ。
さて、余話について—-
はっきりしたことは覚えていないが、40年程前は医師会にはネット、パソコンは縁遠い存在だった。前にも書いたかもしれないが、医師会の親友松下君(故人)の強いすすめと、医師会の補助金交付の恩恵で、最初のパソコンを購入した。そしてパソコンの専門家高橋氏の親切丁寧な指導で、パソコンの世界に脚を踏み入れる事ができた。そして、診療後患者さんにお渡しする病気の説明書を書くことで文字入力を覚えた。その説明書が患者さんのお役にたてていれば幸せだ。
そして、次のステップとして、私の人間性を理解していただきたいあめに、余話を書き始めた。勿論、しろうとの書く文章だから、小学生の作文程の内容だが、許していただきたい。

しかし、100回も続くと、200回に挑戦し書き続ける意欲が沸いた。そして、この様に書き続けることができるのも、パソコンの先生高橋氏のおかげだ。まさか、高橋氏の写真を掲載するわけにもいかないので、私がパソコンに触っている時いつも私の膝の上にいるプリン姫の魅惑的な写真を掲載する。

2018年2月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第101話「予知能力」

 手遅れ医者という古典落語の枕がある。どんな患者が来ても、診察する前に「手遅れだー、手遅れだー」ときりだす医者の話だ。ある時、屋根から落ちて怪我をした患者が来た。例によって、「手遅れだー、手遅れだー」と言うと、担ぎ込んで来た仲間が、「そんな馬鹿な話はないよ、屋根から落ちて直ぐにつれてきたんだよ!先生」。すかさず、手遅れ先生、「屋根から落ちる前につれてこなけりゃ手遅れだ」と切り返す。
さて、本題に入る。うぬぼれている様で恐縮だが、手遅れ医者とは反対に、“私には予知能力が備わっているのではないか”、と思うような経験をした。一ヶ月ほど前、ノドの違和感が主訴で中年の女性が来院した。その方は異常にノドの反射(オエー、オエー)が強くて口を開けられない。口を開けてくれなければノドを診察することは出来ない。その方の表情、症状等から重大な病気があるとは思えなかったので、2~3日様子をみることにした。その方の帰りぎわ、「あなたのようにノドの反射の強い方は、もし、魚を食べて骨をノドに刺したら、とても取る事はできませよ。全身麻酔が必要になるから、魚を食べる時は本当に注意して下さいよ!」、とご注意した。その約1週間後、その方がノドに魚の開きの骨を刺したと飛び込んで受診した。やはり、全く口を開けられない。口を開けられないのはその方の罪ではなく、生まれつきの条件反射だ。やむなく、入院設備のある病院に救急で依頼した。その病院でCT等の検査後、全身麻酔で魚骨を除去したとの連絡があった。その開きは随分と高価になったはずだ。手遅れ医者ではないが、その方は、“今後、魚を食べる前に受診しなければならい。”
普通、魚の骨は扁桃腺に刺さっていることが多いので、耳鼻咽喉科専門医なら簡単に除去できる。

魚の開きでは面白い話がある。私は子供の頃(何才の頃だったかは覚えていない)、開きはそのままの形で海を泳いでいたと信じていて笑われた記憶がある。

物知らずを自慢するようだが、私は、小学校の1年か2年の時、担任の先生に、「稲からとれる物は何ですか?」と質問されて、「ご飯です」、と答え笑われた記憶が鮮明にある。然し、あの明治の文豪夏目漱石(東京育ち)が稲から米がとれるのを知らず、友人の正岡子規に笑われた事を後年知って安心した。

2018年3月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第102話「レディーファースト」

 レディーファーストという概念は、中世のヨーロッパでうまれた騎士道精神を源にするという。
姉五人の末弟である私は、女系家族のためかも知れないが、幼児期から母姉をたてるように父から強くしつけられた。
小学校に入学した初日、電車の席に座る優先順位は常に母親にあることを厳しく言われた。
少し成長してからは、荷物を持つのは男性の役目、エレベーター、車の乗り降り、建物に入る時は必ず女性を優先する事、歩道を歩く時は必ず車道側に自分の身を置くこと等々を強く教わった。
例え、自分の娘でも女性である以上、建物に入る時はドアを私が押さえ、娘達を先に入れる習慣が今でも私にはある。
そして、屋内では男性は必ず帽子を脱ぐことが礼儀であると教えられた。最近、テレビに出演中の芸能人達がスタジオ内で帽子をかぶっているのには強い違和感をいだいてしまう。
逆に、昔の紳士は必ず外出時には中折れ帽をかぶっていた。流行の違いだろう。

私は生涯、レディーファーストをつらぬくつもりだ。
この原稿を書いている今(2013/02/27)
エジプトの熱気球が事故をおこし、操縦士が乗客を放置して脱出したとのニュースが流れた。
私は違う。大地震が神奈川県を襲ったら、患者さんの安全を最優先するのが院長としての当然の義務として、自分を犠牲にしてでもスタッフの女性達を守るだろう。

2018年4月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第103話「傷つけられたプライド」

 私は生涯に三回、忘れる事の出来ない程、深くプライドを傷つけられた事がある。

最初は、医師になりたての2年目、済生会宇都宮病院に赴任していた時のことだ。その頃は今と違い製薬会社も景気が良かったのだろう。某製薬会社の宣伝部に所属していた女子野球部が、有力病院との親善試合のために全国を転戦していた。私が勤務していた済生会宇都宮病院と対戦したのは、三共レッドソクスだったと記憶している。
私は子供の頃、草野球、夏は鵠沼海岸で砂野球(ビーチベースボール)を楽しむ野球少年だった。バッティングも好きだったが、仲間の中では無類の強肩を誇っていた。普通部(慶応の中学校)に入学した時は、野球部の勧誘が来たほどだ。然し、どうしても水泳部に入れと言う父の希望があり野球部はあきらめた。この事はどうでも良い。私が親の言いつけには従う素直な性格だったという事を強調したいだけだ。
三共レッドソクスが宇都宮に来ると決まってから、私は対戦が楽しみで興奮した。病院側は野球好きの医師、とレントゲン技師、事務職員をかき集め即席チームを構成した。勿論男性だけだ。当日の先発投手は光栄にも私に決まった。私は良いところを見せようと思い、妻(当時は婚約者)を招待した。結果は無残にもノックアウト。打撃も全く当たらず、チームもコテンパンに負けた。情けないところを将来の妻に見せてしまった。男の奢りかも知れないが、野球で女子に負けた事は深い心の傷になった。それ以後、野球のグラブにさわった事もない。
それから10年以上たち、私は独立して善行で耳鼻咽喉科クリニックを開業した。その頃は、レセプトコンピューターは勿論なく、いわゆるレセプト(保険請求)は手書きだった。算盤の出来ない私は、月末・月初は徹夜の連続だった。しばらくして、加算機を購入した。今では信じられない事かも知れないが、その頃の加算機は計算が不正確(旧国鉄の関連会社の加算機で、販売会社が欠陥品と認めた)で頭が狂いそうになった。あの地獄の苦労は思い出したくない。
「パパは患者さんを診察する時より、計算の方が一生懸命ね!」、
疲労困憊の私に投げかけた長女ゆかり(現在の副院長・当時幼稚園児)の痛烈な言葉だ。「パパは診察には自信があるが、計算が苦手なのだ。」その反論は幼稚園児の心にはとどかなかったようだ。空虚な言葉として、自分のプライドを傷つけるのみで終わった。
更に数年たち、今、私の医院でレーザーを専門に施行している次女さゆりを連れ、妻と3人で銀座に行った。さゆりが高校生の頃だった思う。私の医学部同級生の女医に偶然出会ったので、一緒に食事をした。その友人がお世辞のつもりで言ったのだろう。「さゆりちゃん、あなたのパパは学生時代、成績がすごく優秀だったのよ!」。
さゆりの返事、「私にはそうは思えません。今、父に勉強の事を質問しても、何も返事出来ません。」私の心は深く傷ついた。
人間の持つ最も偉大な能力は、“忘れる事が出来る”、ことだという。
生まれてからの事を全部記憶していたら、人間の脳は破壊されてしまうだろう。特に嫌な事は優先的に忘れるようになっているらしい。
然し、私のプライドを傷つけた三つのエピソードは、今でも私の心に深い爪痕を残している。私が愛する三人の女性、即ち妻、長女、次女が関与しているからだろうか。
プライドを傷つけた三つのエピソードは、今でも私の心に深い爪痕を残している。
“エビングハウス(19世紀のドイツの心理学者)の実験によれば人間は、20分後に42% 1時間後に50%以上 6日後に76%以上忘れる”、という。

2018年5月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第104話「パトカー」

 私達医師は犯罪捜査を行っている刑事さんから、患者さんのカルテ公開を求められることがある。医師としての守秘義務との関連を医師会長に質問したところ、“警察には協力する”のが、医師会のスタンスとの事だった。刑事さんと話をしている内に、私は彼等は仕事には熱心だが、仕事外での話は面白く、優しい人達が多い事を知った。その後、私は刑事さんに出来るだけ協力するようにしている。

私の友人が数年前、都内の一流ホテルに車で到着する寸前、警察官に停車を命じられた。当日、そのホテルには国際的な要人が宿泊していたため、ホテル内への車の乗り入れは禁止されていた。その警察官は、彼の車をホテル近くの路上に駐車するように命じた。「この場所は駐車禁止地域ではないのか?」と、彼が質問すると、今日は特別だから、その場に駐車するようにとの事だった。彼が、ホテルから帰ってくると、その場から車が消えていた。そして、その警察官の姿は見えず別の警察官がいた。彼に車の事を聞くと、「此処は駐車違反地区だから、レッカー移動した。違反切符を切るから、車を自分でとりに行くように」と指示された。
怒った彼、「今迄、自分は警察のことは何でも聞いて来たが、今後は警察のいうことは一切信用しない。自分の弟は、弁護士なので警察を訴訟する。」。
おれた警察官「違反は見逃すから、車の置いてある所までタクシーでとりに言ってくれ」。友人「それではタクシー代を出してくれ」。警察官「それは出来ない」。友人「それではパトカーで送ってくれ」警察官「それは、勘弁してくれ」。
結局、彼はタクシー代自腹で、車を取りに行った。パトカーに乗り損なった事を残念がっていた。
 ゆかり副院長の幼児期、家族で行楽地に遊びに行った帰路、私の車に接触して追い越した車が、歩行者に軽い怪我を負わせて止まった。
反対車線を走っていたパトカーがUターンして駆けつけて来た。

何とその暴走車の運転者は無免許だった。運転手は直ぐにパトカーに乗せられて行った。けが人は只の擦過傷だったのが幸運だった。私もパトカーに乗って見たかったが、自分の車、家族がいたのであきらめた。
私は一度パトカーに乗せてもらいたいと思っている。それは、古いアメリカのテレビドラマである「逃亡者」のファンだからだ。
妻殺しの容疑をかけられた小児科医が、全米を逃亡し続ける話だ。無実が証明され逃亡する必要が無くなった最終回、彼が街を安心して歩いていると、その脇をパトカーが走り抜ける。実に巧みにパトカーが小道具として使われている。それ以後、意味なく私はパトカーにあこがれた。

2018年6月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第105話「地震予知」

 熊本地震の被災地の方々には心から御同情申し上げます。
私の友人の地震学者に聞くと、今の日本の地震学は急速に進歩しているとの事だ。それにしては、「阪神淡路大震災、東日本大地震、今回の熊本の大地震も予知出来なかったではないか」、と批判すると、自然現象は人知を上回るものだと軽くいなされてしまった。更に、医師である君自身も自分の寿命を予知できないだろう。それと同じ事だと皮肉られた。
熊本地震の詳細は新聞テレビで知る知識しかないが、“エコノミークラス症候群”という言葉に些かの疑問を感じる。私は学生時代、循環器の講義で“ロングフライト症候群”、と教わった記憶がある。“エコノミークラス症候群”という言葉には差別用語的な響きがある。
さて、昔から、怖ろしいものの代表として、“地震、雷、火事、おやじ”があげられている。(おやじは、父親を指すするのではなく、台風を意味するらしい。))
私は、数年前、北海道旅行の際、昭和新山記念館を見学し、三松正夫氏(1888.7.9.~1977.12.8.)の業績を知り深く感銘した。

有珠山の噴火を体験した三松正夫氏は、一介の郵便局長でありながら、アマチュア地震研究家として火山の誕生をみつめ、私財をなげうち、地震予知に生涯をささげた。自身亡き後は、後世の学者に地震予知の研究を託したという。

最近、いろいろな研究で、ねつ造、公金の不正流用が取りざたされている。その真偽は知らないが、三松正夫氏のような高潔な、すがすがしい学者の存在を期待する。
研究と言えば、私も若い頃、研究に没頭した時期がある。テーマは扁桃腺の手術の際の、ショックとその予防についてだ。その頃の扁桃腺の手術は今と違って局所麻酔下で行われていた。今、普通に行われている全身麻酔下の手術と違い、ショックを起こす危険がはるかに多かった。そのため、ショック予防の研究をしたのだが、ある程度の成果をあげた後は、研究から身を引き、開業医の道に突き進んだ。それに、現在は扁桃腺の手術は全身麻酔下で行われるようになり、ショックの危険はなくなったために、私の研究は日の目を見なかった。然し、扁桃腺の手術が局所麻酔から全身麻酔に移行した経緯に多少の貢献をしたのではないかと、多少の自負はある。

2018年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第106話「私と医師会」

 藤沢医師会の論客が、最近の藤沢市医師会報に各医師会員のあり様を、三種類に分類して述べていた。私は、医師会報にはざっと目を通すだけで廃棄してしまうので、その内容を正確に再現することは出来ないが、的を射た論旨だったと思う。

どのタイプの会員が好い悪いといのではないと、彼は明確に述べていた。
私自身は問題なく3番目のタイプだろう。私は、耳鼻咽喉科の医療には自信があるが、政治的なセンスは皆無だ。開業してしばらくすると、医師会の役職が順番にまわってくる。藤沢市医師会は10組のグループに分かれている。私にもグループ理事の順番が廻って来た。この役だけは逃げられない。その年の新年会報に理事の“理事挨拶”を書かなければならない。医師会館などに行かず、自分のクリニックで診療のみしていたかった私は理事挨拶に、「鎖国を守って来た我が国に開国をせまる黒船の来襲、やむなく理事に就任――、」と自嘲気味の新年所感を書いた。藤沢市医師会報は国会図書館にもおかれていると聞き驚いたが後の祭りだ。

理事会に出席するだけで何もしない理事だったが、唯一の実績は、青木クリニックの青木龍夫先生と理事会を禁煙にした事だろう。それ以外は全く無能な理事だったが、2年間はグループ理事をつとめた。然し、私と同じく、グループ理事の順番が回ってきたら、医師会を退会して、自分の診療所のみ続けている猛者もいる。彼の方が上手でいさぎよい。
開業して数年してから、私はゴルフに狂った。週二回は必ずゴルフ場に通った。日曜日と水曜日(水曜日は東海大学から医師が派遣されていた)の二回だ。ちょうどその頃、医師会の公的な会合で先輩から、医師会の他の仕事をするよう言われた。これは義務ではない。当然、私はお断りした。その時の私の断りの理由ははっきりと記憶している。
月曜日の夜は、日曜日のゴルフで疲労しているから在宅していたい。
火曜日の夜は、水曜日のゴルフに備えて早寝をしたい。
水曜日はゴルフで手一杯だ。
木曜日の夜は、水曜日のゴルフの疲れのために在宅していたい。
金曜日の夜は8時から、「アタックナンバーワン」「太陽に吠えろ・当時のテレビ人気番組」を娘と楽しんで観る親子交流の唯一の時だからだめだ。土曜日の午後は、日曜日のゴルフに備えて練習場に行くーー。ここまで言った時、先輩から一喝、「君には何も頼まない」、それで終わりだった。私も当時、若かったからこの様な失礼な事を言えたのだろう。

2018年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第107話「私とゴルフ」

37才の頃、藤沢医師会の大先輩方のすすめで、藤沢医師会ゴルフ部に入会した。
学生時代から球技が好きだった私は、直ぐにゴルフのとりこになった。37才の頃だ。
開業当初から私のクリニックは多忙を極めた。ゴルフの練習などする時間はなかった。只、医師会ゴルフ部の先輩達から、ゴルフの本質を指導していただいた。
数年後、ふとした縁で、神奈川県のゴルフ場のメンバーになった。

私は元来、人見知りをしない性格なので、そのクラブの会員の輪の中にスムースに溶けこむ事ができた。当時、親しくなったグループの中に、医師は一人もいなかった。そこで知り合った友人から、「矢野さんはドクターらしくない」、と言われたことをはっきりと覚えている。
それが、褒め言葉だったのかどうか私は知らない。
そのクラブでは、80才になっても若い頃と同じペースでプレイをしているのは、20分の一だそうだ。私は、それに挑戦するつもりだ。
そして、私がそのクラブでのプレイを楽しんでいる大きな理由は、そのコース所属のプロ(トーナメントプロ)との出会いだ。今、彼自身はトーナメントに出ていないが、“壊れたプロ”を直す事にかけては、日本一だそうだ。

アマチュアには極めてユニークなレッスンをする。例えば、――
そんな打ち方では、ゴルフクラブを新しくしても同じだから、
新しいクラブを買うのは無駄です。
今のスイングは、尻尾をつかんで犬を振ったようなものだ。犬が尻尾をふるように、クラブを振りなさい。
頭の中で分かっていても体で出来ないのがゴルフ。
そして、満足出来るスイングが生涯できないのがゴルフ。
うんちくのある言葉ではないか。

2018年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第108話「医学部教育」

 最近、医大生、医師、そして医大病院での不祥事が続発している。
それを憤った投書が、某一流新聞に掲載されていた。医療に携わっている私も実に嘆かわしいことだと思う。
そして投書者は、医師の不祥事が多発する原因を、不適正な医学部教育にあると断じ、「医学部は何を教えているのだ」と、大学教育のあり方を非難している。然し、私はその点は賛同できない。
医学部だけでなく全ての大学は、その専門分野を教え、学生はそれを学び且つ研究するところだ。

大学は幼稚園や小学校ではない。他人への思いやりや人間の常識は小児期にすでに培われねばならない。
今回、多発した医師の不祥事は、その家庭環境、幼児期時代の教育に根ざすのではないだろうか。
 一つのエピソードをご紹介する。
慶応医学部時代の同級生が、ある大病院の院長に赴任した時の事、若い医師が、院長である彼と廊下ですれ違う時に挨拶をしなかった。それをたしなめたところ、翌日は廊下の反対側から、「お早うございます」と、どなり声で挨拶した。院長室に呼びつけ、挨拶の仕方を彼に教えた。その数日後、彼の母親が院長に面会に来た。何か文句を言いに来たのかと思ったら、「息子をよく叱って下さいました。息子は人様から怒られた事はありません。又、両親も怒った事がありません。息子は家に帰って大いに反省していました」と、礼を言い、菓子折りを置いていったという。
挨拶をするかしないか、今回の医師の不祥事(暴力行為、性犯罪)等が反社会的行為である事位、人は自然に認識しているものだ。
教え、教わることではない。強いて言えば幼児期の家庭教育だろう。

2018年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第109話「私の勉強」

 私は生涯に二つの免許証書を得た。医師免許証と運転免許証だ。 古い話だが、医師になった最初の頃、必用にせまられて運転免許取得に挑戦した

医師免許をとって間もない若い頭脳で運転免許の法規で落第したら笑い者になるのは必定だ。恥をかくのが嫌で、短期間だったが運転法規の問題集を読みふけった。あの時ほど真剣に勉強したことはない。おそらく満点でパスしたと思うが、その運転法規を今では殆ど忘れてしまった。一夜付け勉強のむなしさだ。
 更に話は古くなる。私は幼稚園時代ひっこみ自案の子であった。その私が慶応幼稚舎(小学校)に入学出来たのは、両親の私への思いが常規的でなかったからだと思う。私が5才位の頃、両親から小学校の面接の練習を毎日執拗にくり返しくり返し行われた。父母が交代で試験官になり、口頭試問の練習を行うのだ。「お名前は?」、「何人姉弟ですか?」、「お父様の仕事は?」等々、毎日のようにかなり長期間練習させられた。大きな声で、ハキハキ返事をしないとひどく怒られた。今、考えてみると随分と暇な両親だったと思う。

高校に入ってからは医学部に入る事のみ考えた。当時は高校3年生の成績のみで医学部推薦が決められるシステムだった。高1、高2の時は、学校をさぼって年間120本の映画を観た記憶がある。
高3になった時に学外の友人との交際も全て絶ち、ラストスパートに入った。それが成功したのか無事に医学部に合格した。
医学部入学後は、適当に勉強していれば医師国家試験にパスする事はそれほど難しいことではなかった。
1年間のインターン(現在はこの制度はない)は、全科(内科、外科、眼科、耳鼻科等――)を、先輩であるインターン係に指導されながら決められた期間、研修する事が義務づけられていた。然し、各科のインターン係は、我々インターン生を自分の医局に入局させるために優しく親切だった。
然し、耳鼻咽喉科に入局した後の修行は言語を絶する厳しさだった。当時の医局は狭くて医局員が集まると、新人は食事時にも椅子に座ることは許されない。大学病院に入院している患者さんは重症な方が多い。そのため夜になっても、家に帰れないことも多く、睡眠も十分にとれない日々が続いた。“二日前に寝たか、三日前に寝たか忘れた”とい生活も今となっては楽しい。然も、数年間は無給のためで親のすねかじりだった。悪名高い“無給助手”だ。仲間の医局員で失業保険を受けていた者もいる。
先ず、成り立ての新人耳鼻科医は額帯鏡の光を鼓膜に当てる事ができない。要するに鼓膜の治療をするどころか、どこが鼓膜かわからないのだ。今になると非常に失礼な話を告白すると、「春の学校検診で鼓膜を見る練習をするように」、と医局長にアドバイスされた。鼓膜を明視出来るようになるのには、一年位の修練かかったと思う。

そして、手術日が大変だ。光を十分に当てられない、新人医師がメスを持つのだ。勿論、ベテランの指導者が付き添うのだが、患者さんにとっては迷惑な話だ。今は医療過誤、患者さんの権利意識が強くなったので、大学病院でもこのような事はない。昔は、大学病院の使命は患者さんの治療より、医師を育てる事だと言われていた。今は患者さん第一で医師の指導は二の次になった。そのため、当然の事だが、一人前の医師を育てるには長期間かかるようだ。
ある程度、医療行為になれた頃、地方の病院に義務出張を命じられる。そこの修業でやっと医師としての技量を習得し、一人前の医師に近づく。後は、医師当人のセンス、性格、努力次第で、優れた医師になれるかどうかが決まる。再び、大学病院に帰り、指導者側になる。私はその頃、開業医になる事を決意した為、日本一の耳鼻科開業医の指導を受け、数年後に藤沢で開業し現在にいたる。

2018年11月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第110話「五十年一日」

 日本耳鼻咽喉科学会神奈川県地方部会から、「長寿会員」として表彰された。

私は1969年に藤沢市善行で開業した。私がその地を選んだのは、青春時代を過ごした湘南地方に愛着があった事と、鵠沼海岸で開業している疋田眼科の院長(疋田昌子・私の実姉)のアドバイスによる。資金面、精神面でも姉の援助があった。
そして、私の開業と殆ど同時期に、東海大学病院が伊勢原に設立され、その耳鼻咽喉科の初代教授として三宅浩郷先生が慶応から赴任された。三宅教授とのお付き合いは古い。      
私が、1941年に慶応幼稚舎に入学した時の担任が三宅武雄先生(三宅教授の御尊父)だった。戦中、戦後の混乱期にも三宅先生ご家族との交流は続いた。その詳細を書いたら、一冊の本が出来るだろう。
 三宅教授のアドバイスで、私は東海大学の勉強会に出席し、東海大学の先生方と親交を結ぶことが出来た。
開業直後から、順調に患者数は増加したが、小児の患者さんが多いのに驚き困惑した。困惑の理由は、明らかな小児科的疾患が多く含まれている事だった。私は直ぐに優秀な小児科医と緊密な連携を結んだ。藤沢市及び周辺は診診連携・病診連携が充実している。

 医学部時代の小児科学教授の第一声

「子どもは大人の小さいのではない。全く異なる生物だ」。

「医師は自分の専門分野以外に手を出す便利屋にはなるな。守備範囲を決めよ!」

今、思い出しても素晴らしい名講義だ。
現在は、ゆかり副院長(長女)が、私と共に診療し、さゆり医師(次女)も近々戻ってくる。そして、二人で私の診療所を継承することを約束している。

私は今でも開業当初と同じ診療時間を毎日こなしている。生涯現役、先発完投を目指すつもりだ。
 好きな事に関わっての“五十年一日”、私の生涯は幸福と言えるだろう。

2018年12月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第111話「納得出来ない事」

 私はどちらかというと、些細なことにはこだわらない大ざっぱな性格だ。親友は私の事をアバウト過ぎると酷評する。然し私自身は、それが私の数少ない長所の一つだと思っているので折り合いがつかない。例えば、急須から日本茶を入れる時の作法にこだわる人がいると聞いて驚いた。お茶なんかどんな入れ方をしても飲んでしまえば、同じだと私は思うのだが、私が作法を知らないだけかもしれない。
然し、その私も医療に関するかぎりはアバウトではない。私がその道のプロだからだ。
私は投与する薬の種類はできるだけ少なくする医療を実践している。薬剤の副作用を心配するからだ。しかし、薬剤の副作用について調べる場合、その説明書の副作用の項目には納得出来ない事が多い。第一線の開業医は患者さんに薬剤の副作用の説明で常に悩まされる。
例えば杉花粉症のこの時期(この原稿を書いている2019年1月)に投薬される全ての抗アレルギー剤の副作用の項目に、「妊娠中の婦人にはこの薬剤の効果が危険性を上回ると判断した時のみ投与しろ」と書かれてある。鼻、眼の症状で患者さんが苦しむのはお気の毒だが、花粉症は命に関わる危険な病気ではない。それ故、「花粉症の危険性とは何を意味するのか?」、と、学識経験者に問い合わせた所、その返事は「くしゃみをして流産したら危険だ」との事だ。そのような事態を、どんな医師でも察知することは不可能だ。「この薬は、妊婦に対する安全性は確立していないので、妊婦には投薬禁止」と記載してくれれば、患者さんも納得出来るし医師も悩まなくてすむ。
薬剤の副作用の説明書の書き方には納得出来ない事が多い。
尚、妊婦担当の産科医は、我々よりも妊婦に対して薬剤を比較的楽観的に投薬するようだ。私が少し神経質なのかも知れない。

2019年2月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第112話「解剖実習」

「医学を志す諸君にとって、解剖学はその基礎である。生涯、人の病気に関わる諸君は、人体の構造を隅々まで正確に記憶しなければならない。これから、解剖実習を始める。諸君の前のご遺体に敬意を払うべし。」
解剖実習室での望月周三郎教授の第一声だ。
 こうして、医学生にとって最初にして最大の難関である解剖実習が始まった。1955年秋のことである。
 私は、遺体に触れるのは初めてではなかった。その夏休みに、東大医学部の友達に誘われて、東大医学部の解剖教室で、同大学の解剖学教授に解剖の基礎を教えていただいていた。解剖に供される遺体が少なかったその時代、他大学の医学生にその機会を与えて下さった東大の教授は希に見る心のひろやかなお人柄だったのだろう。今でも感謝している。
さて、私は遺体に触れるのに恐怖感は持たなかったが、クラスメイトの女性(今では立派な女医になっている)が、遺体を見た瞬間失神した。他の同級生も緊張の余り震えていたようだ。然し慣れとはおそろしいものだ。皆直ぐに、皆解剖教室で、昼食を食べるようになった。それを、望月教授に見つかり、怒られると思ったら、「皆、一人前の医学生になったな」、と褒められた事をはっきりと覚えている。
二体を半年の間に解剖して、遺体の前で教授から口頭試問形式のテストを受けなければならない。人体の骨の数・200以上、関節・260 筋肉・350以上の名称、複雑な内臓、頭蓋内の、血管の走行まで暗記しなかればテストに合格しない。医学部生活でもっとも充実した時期だったかもしれない。青春時代のクリスマスイブを解剖学教室で徹夜したことも今では楽しい思い出だ。

この写真の右の友人は医学会のエリートの道を歩み、今では、健康医療戦略室長(「内閣官房内」として活躍している。彼は彼の人生を歩み、私は開業医の道を力一杯生きている。今でも無二の友人だ。

2019年3月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第113話「私は悪筆」

 私の欠点は救いがたい音痴と悪筆の二つだ、と自分では思っている。だが友人は、私には他にも欠点が多々あるというが。然し私自身は他の事は自分の個性だと達観している。
音痴は歌わねばすむが、字は書かないわけにはいかない。悪筆は音痴以上の深刻な問題だ。只、救いは同業者である医師に悪筆者が多いということだ。
日頃から感じているのだが、一応大学教育を受けた職種の中で、医師程悪筆の多い集団はないだろう。勿論一般論のことで、医師の中にも達筆な方はいる。この方々には最初からお詫びしておく。

子供の頃から私は字がへただった。私の字がへたなのは、勿論私自身の責任だが、私の父親の教育方針にも問題があった。慶応高校時代、私の字のへたなのを心配して下さった漢文の先生から、時間外に、習字の個人教授をしてくださるという好意あふれるお申し出があった。それを医学部進学には理数系の勉強のほうが必要だという理由で父が断ってしまった。あの時習字を習っておけば良かったと思うが後の祭りだ。

これも昔の話だが医学部時代、英語の答案用紙を教授から返された時、「矢野君の英訳は良くできているが、もう少し読める字で書くように!」、と注意されたこともある。
今でもまともな字が書けない。自分の書いた字が自分自身で読めないで困ることもよくある。カルテの記載、診断書、公的書類を書いた後で読み直すと恥ずかしくなる。
約30年ほど前だろうか、三宅東海大学耳鼻咽喉科教授(慶応医学部時代からの恩師)から、オアシスのワープロの使用をすすめられた。当時の価格で100万円以上したと思う。タイプなど打った経験のない私は、死にものぐるいでキーボ-ドにとりくんだ。その頃は私も未だ若かったのでブラインドタッチで直ぐに打てるようになった。その教授に、「先生にお願いする患者さんの紹介状をワ-プロで打っては失礼ではないですか?」、と質問したところ、「君のきたない字の紹介状よりはるかに良い」、と一笑にふされた。
くせ字の医師が多いので、医療機関同士の紹介状、その返事は解読するのが困難なことが多い。お互い様だ。
事実、介護保険の認定委員会は、介護士、保健所職員、医師から提出され書類を資料として委員会で認定するのだが、医師からの書類があまりの悪筆のため委員会でもてあまし、医師会に“読める字”で書いて欲しいという要請があり、医師会から我々の所に「誰でも読める字で書け!」という注意のファックスがきたことがある。

その解決策として、最近ではパソコンのワープロ機能を使って紹介状、返事、診断書等を打つ医師が多くなった。私は診察中には自分でパソコンに触る暇はないので、内容をメモ用紙に書きスタッフに渡して打ってもらうようにした。然し、スタッフ達はメモ用紙に書きなぐる私の字が読めないとこぼすので、最近では私の口述をスタッフがメモに書いている。お世話様。
ここまで書いて思い出したのだが、私が愛読している曾野綾子氏のエッセイの中に、曾野氏自身が原稿をワープロで打つと書いてあった。その理由として、訂正が自由にできることと、編集者が原稿を読みやすいようにと述べている。更に、手書きでなければ、自分の原稿に魂が入らないからワープロを使用しないという他の作家の事を皮肉り、その作家は単にワープロを使えないだけのことだと切って捨てている。この言葉を力に私もこの原稿もワープロを使用して書いている。大作家としろうとの低次元の作文を同列のように述べるのは汗顔のいたりだ。
この作文は夜書いたのだが、偶然、翌朝の朝日新聞の天声人語に、全く反対の意見がのせてあった。曰く、手書き原稿は迫力が静かに伝わってくる。例えば、「死」をsiと打てば、重みも実感も薄れる心地がすると述べ、万年筆の使用をすすめている。

今後、ワープロを選ぶべきか万年筆を選ぶか、私の心は揺れ動く。優柔不断な私には決心がつかない。
この優柔不断こそが、私自身が密かに感じている最大の欠点かもしれない。

2019年4月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第114話「私は音痴」

 曾野綾子氏のエッセイ「誰のために愛するか」の中に次の一文がある。 世界的な偉人、天才達も人知れずに悩んだコンプレックスがあった。有名な例では、雄弁家であるデモストネルは実際には吃逆(吃り・差別用語)、ダーウインは病弱、スウイフトは自分の才能が人にわからないとい う点で、フロイドは広場恐怖症、チャーチルとトルストイは不器量コンプレックスに苦しんでいたという。 世界史に名を残す人達に並べて私自身の事を書くのはいささか気が引けるが、私が持つ最大のコンプレックスは人並みはずれた音痴であることだ。“音痴・調子外れ”、それは私にとって生涯の心の傷になった。 私は、人前で“ハトポッポ”を歌うことも出来ない。勿論、カラオケなどに行ったこともない。 私の声帯は強く、人並み以上の肺活量があるため、長時間続けて大きな声で話すことは可能だ。 耳鼻咽喉科医として、プロの声楽家、著名な詩吟の先生、浪曲家、落語家等の発声異常の診断治療を長年にわたり経験した。その方々に私が音痴である事をうちあけると、私の声量が豊かな点をほめ、歌えないはずはないとなぐさめてくださる。 然し、いくら大きな声が出てもフシがつかない以上どうしようもない。 私の音痴は、もちろん生まれつきのものだろうが、小学生時代に受けた音楽教育のありかたにも問題があったと思う。私の不幸は後年、著名な音楽家になった三保敬太郎君(ミホケイ・故人)が同級生にいた事だ。彼は、東京オリンピックのテーマミュージックを作曲した程の音楽家で私の親友だった。 当時の音楽の授業では、音楽の先生が生徒を教壇の前で立たせて、先生の弾くピアノに合わせて唱歌を歌わせた。 音楽の先生は、三保君にはくり返し歌わせて聞きほれる素振りをお見せになるのに、私の時はうんざりするのか途中で打ち切るのが常だった。そして、「三保君は幼稚舎(慶応の小学校)始まって以来の美声の持ち主、それに反して矢野君の音痴は救いがたい」、と言われたことをはっきりと記憶している。その頃から音楽教室に行くのは屠殺場にひかれていく牛の気持ちも「カクヤアルラン」、といったところだった。音楽がそれ以来、大嫌いになった私は、音符(オタマジャクシ)も生涯理解する事が出来なかった。

今の私は自分の音痴など気にもしていないが、若い時は人には知られたくない大きなコンプレックスだった。
じょうずでなくても良い、人並みに歌えればどんなにか自分の人生に彩りを添えられたかと思うと一抹のさびしさを感じる。
カラオケの先生の門を叩くことも考えたが恥ずかしくて止めた。
「“成せば成る”のは大嘘で、“成しても成らぬ”、事が多いのが人生だ!」、という言葉を曾野綾子氏のエッセイで読み、残念だが音痴と生涯つきあうことにした。自分らしい欠点は誰でも残しておけばよいのだ、と達観した。

2019年5月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第115話「耳つまり感」(耳閉感)

 耳鼻科のクリニックには“耳つまり感と耳が聞こえなくなった”という訴えで診察に見える患者さんが多い。
よくあるのは、ご自分で耳掃除をして、綿棒等で耳垢を押し込んでしまったケースだ。我々耳鼻科医は簡単に耳垢をとる事が出来る。然し、石ころのように固くなった耳垢は、点耳薬でふやかしてからとるほうが得策だ。ご自分で耳掃除をするのは危険だから絶対に禁止だ。この詳細については“病気の説明”の項をお読み頂きたい。
耳つまり感を訴える患者さんの圧倒的多数は耳管狭窄症という病気だ。鼻と耳をつないでいる耳管の空気抜きが出来なくなると、耳つまり感をおこす。鼻炎、副鼻腔炎等、鼻に異常がある事が殆どだ。一時的には、飛行機にのった後や、登山、スキューバー等、気圧水圧の急激な変化に耳管の空気抜きが追いつかない時にも起こる事も多い。
耳管狭窄症が更に進むと、滲出性中耳炎(痛みのない中耳炎)に進行することもある。又、頑固な耳管狭窄症、滲出性中耳炎が長期間続く場合には、鼻の奥に腫瘍が出来ている事がまれにある。この事に関しても、これにも、“病気の説明”のところを読んで頂きたい。

 次に最近のエピソードをご紹介する。外出先であった私と同年配の知人(医師ではない)が、胃癌の手術後、急激な体重減少をおこし、それと共に強い耳閉感に襲われた。その不快感にたえられず、近所の数カ所の耳鼻科クリニックを受診したが、診断がつかず悩んでいるとの事。出先の事で診察など出来ない。
私は、彼に「深くお辞儀の姿勢をとり、頭を下げた時に、その不快感がとれるかどうか」を尋ねた。彼は、その姿勢をとると、見事に不快感がとれるという。「お辞儀の姿勢で軽くなる」、は耳管開放症という病気の有名なサインで、耳鼻科医にとっては常識だ。私はすっかり名医あつかいされた。耳管機能検査という簡単な検査で確定診断できる。然し、藤沢市では、この耳管機能検査の設備機能は市民病院以外には、私の所以外には設置されていないらしい。

次に、耳つまり感をおろそかに出来ないのは、突発性難聴及び、その類似疾患だ。かなり重症な突発性難聴の患者さんも、耳の聞こえが悪くなっている事に気づいていないことがある。精密聴力検査のもと確定診断を下し、一日も早い適切な治療が必要だ。高度の治療を要するケースでは、入院加療の可能な病院に紹介依頼する事が必要となる。
「せっかく、自分を頼って見えた患者さんだから、最後まで頑張って自分で治療する」、と考える耳鼻科医もいるが、私はこの考えには賛同できない。

医師の責任とは、患者さんが受けるべき最善の道を用意する事ではなかろうか。

2019年6月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第116話「性善説 性悪説」

 「朝日新聞の天声人語に福井市の仁愛女子校が10年前から続けた傘の無料貸し出し活動「愛の傘」を終えることになった。借りたまま返さない人が多すぎた。」という記事があった。それを読み私は昔の事を思い出した。いつのことだったか、はっきりした記憶はないが、多分1950年位の事だったと思う。私が慶応の普通部(中学)の頃、湘南三四会(慶応の同窓会)の活動が盛んだった。仁愛女子高の活動と全く同じように、小田急鵠沼海岸の駅に貸し傘のコーナーを借り、雨降りの日に雨傘を貸し出す運動をした。

しかしこの運動も長くは続かなかった。殆どの傘が返却されなかったのだ。傘を購入する資金がなくなり、この運動は中止せざるをえなかった。人を疑う事を知らなかった未熟な私達は、(何で?)というむなしい気がしたことだけを覚えている。
数年前、見知らぬ人の善意に感激した事がある。プリン姫の写真入りの財布を都内のどこかで紛失した。

財布のなかみの現金は僅かで、カードも入れてなかったので、損害はそれ程のことではない。だがプリンの財布を失ったショックでその夜は眠れなかった。然し、その翌朝、都内のタクシー会社から、財布を保管しているという電話があった。中に入れてあった名刺から私の自宅が判明したらしい。中身は勿論無事、タクシーの運転手さん、大切に保管して下さったタクシー会社に心から感謝した。
私の父はアメリカの大学を卒業したせいか、アメリカかぶれの強い人だった。第二次大戦中も典型的な非国民で軍隊が大嫌いな人だった。その父が溺れた水兵さんを助けた。1942年の夏、私達一家は鵠沼海岸の別荘にいた。その時、海軍が“泳げない水平さん”に泳ぎをしこむために、沖の方で船の上から海の中に水兵さんを投げこんだ。そしてその水平さんは当然の事、アップアップして危ないところ海辺に引き上げられた。それを見ていた父が義憤にかられて、我が家に連れて来て、介抱して蘇生させた。砂だらけの若い水兵さんだったことしか覚えていないが、その時言った父の言葉だけは、はっきり記憶している。「この若者に罪はない!」

2019年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第117話 「藤沢医師会ゴルフ部との出会い」

 話は古い。私が善行の地に矢野耳鼻咽喉科を開設したのは1969年1月の事だ。その春は、例年にない程の杉花粉の飛散が多く、開業直後から極めて多忙だった。杉花粉が一段落した5月頃、私は肉体的、精神的に疲労の極地におちいった。
病院勤務時代は、常に多数の同僚医師に囲まれていて、共通な話題も多く退屈する事もなかった。開業当初は、妻及び親戚の一人に受け付けを頼むという所謂“三ちゃん医療”、で共通の話題の相手がいない。休みの日など散歩をする位しか時間のつぶしようがない。患者さんを診る多忙な日と無為な日のくり返しだった。その様な時、散歩の途中で何気なくゴルフの練習場に入った。それが私とゴルフの出会いだった。その練習場の所属プロに、ゴルフの初歩を教わった。休みの日は夢中になって練習場に通った。それから数ヶ月後、藤沢医師会から、小田原医師会と野球の試合をするから、医師会館に集まるようにとの連絡があった。野球は自信があったので喜んではせ参じた。然し、その会合は野球の話はそっち抜けで、ゴルフの相談会のありさまだった。唖然として座っていると、大先輩から、君はゴルフをやらないのかと質問された。練習場には通っていますが、コースには行ったことはありませんと答えた。「丁度良い、次回の医師会ゴルフコンペに欠員が出たから出場する様に!」。最初は辞退したが、大先輩達の好意あふれるお誘いに甘えることにした。

確か、12月の事だったような記憶がある。その頃のゴルフ部の会長は、山川彦一先生(現山川医院の先代院長・故人)でユーモアあふれるダンディーの方で、その話術も面白かった。又、補佐役の奥様も素敵な方で、ご夫婦は本当におしどりご夫婦だった。その他には、慶応の大先輩の小林重雄先生(本鵠沼の小林内科の初代院長・故人)、石井凉先生(婦人科・故人)等々、今では考えられないスケールの大きな方々の集団だった。殆ど同時期に入会したのが、整形外科の木島英男先生で、終生の良きライバルだ。

ゴルフ場のマナー、エチケットを1~10迄教えて下さったのがこの方達だった。そして、医師会のコンペ以外のプライベートでも、毎週のように、ゴルフ場にさそって下さった。そして、私は次第にゴルフというスポーツにのめり込んでいった。

その方達を通じて、医師会の交際範囲の輪がひろがり、「矢野君は、医師会の仕事を何もしないのに、友達が大勢いる」と、うらやましがられたのもこの時期だ。
山川彦一先生が亡くなった後の後任の会長に、木島英男先生と私の名があがった。木島先生は医師会の公的な仕事に多くたずさわっていたので、何もしていない私が、ゴフル部の二代目会長をお引き受けする事になった。
ゴルフ部に所属して多くの知人を得た事は、藤沢における私の開業医人生を豊かなものにした。
ゴルフ部には、医師会から公的な援助金が出ているのだから、“矢野潮も医師会の仕事を十分にしたのだ”、と自負して良いのだろうか?
未だに、自問自答している。
最後に述べたい思い出は、酒井達二先生(辻堂の酒井医院の前院長)の助言だ。ゴルフ場の帰路の車中で、私が柄にもなく医師会の政治的な話題に触れると、一喝された。
「君は医政の話などするな!似つかわしくない」今、考えると素晴らしいご助言だと思う。以後、私は自分にとって嫌な事からは逃げる様にしている。
 今も、私の書斎にかけてある曾野綾子氏のカレンダーには次の様な文言が書かれている。

2019年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第118話 「ホールインワン」

 私は、約50年のゴルフ歴の中で、ホールインワン2回達成した。
一度目は戸塚カントリー東コース4番(172ヤード)でのハプニングだ。使用クラブは4番アイアン、使用ボールは4番4バウンド目にホールに消えた。同伴競技者、キャディさんが確認している。クラブの公式競技だったので、クラブハウスの壁に私の名前が記念に刻まれている。

 2回目はドクターズ(藤澤医師会ゴルフ部)のコンペが茅ヶ崎ゴルフ場で行われた時の出来事だ。2番ショートホール(125ヤード)、

午前のスコアが滅茶苦茶だったので、同伴競技者K先生のクラブ(9番アイアン)でショットした球がホールイン。前の組の仲間が見ていて大騒ぎ。ホールインワン保険に加入していたから良かったけれど、さもなくば予定外の大散財。然し、同伴競技者のクラブで打つなど、公式競技なら重大なペナルティーだが、仲間全員が祝福してくれた。尚、藤沢藤澤医師会員には、ホールインワンを4回達成した剛の者が二人もいる。
その年、私はそのホールインワンをいれて、年間7回のイーグルを達成した。生業のあるアマチュアでは珍しい記録だと思うが、問題はその後、一回もイーグルを記録した事がないことだろう。
尚、私は戸塚の公式競技(マッチプレイ)で4連続バーディーを記録した事がある。今は昔の物語だ。

2019年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第119話 「院外処方箋」

 院外処方箋に関する投書が某新聞に記載されていた。交付日を含め4日間と定められている院外処方箋の有効期間を長く出来ないだろうか、という内容だ。一見もっともな話だが、刻々と病状の変わる病気もある。その度に違う薬を投薬しなければならない。院外処方箋の有効期間をあまり長くすると、病状と薬剤が不適合になり、投薬内容を変更しなければならない時、患者さんの経済負担が大きくなる。

 薬局から期限が切れた処方箋の期限延長を望む電話がしばしばある。余程の事がないかぎり私は承諾する。然し、私が不思議に思うのは、薬局依頼の処方箋変更時は、発行時には必要な私の押印が不要なことだ。それを考えると、薬局が私の同意を得ずに内容を変更する事も可能だろう。
尚、紛失した処方箋の再発行は実費となり、薬剤費も健康保険が摘要されず、全て自己負担になる。

それを考えると、私は「掛かり付け薬局を決めろ」、という意見には反対だ。遠方からの患者さん、通勤途中に当院を診療する方も多い。いくら、住居の近くに掛かり付け薬局をあっても、薬局にも営業時間がある。患者さんが帰宅する時には薬局がしまっている事もある。門前薬局(嫌な言葉だが)ならその心配はない。私のクリニックの周辺には3軒の門前薬局がある。

門前薬局と言っても、クリニックの経営とは全く関係ない。全部違う経営者と薬剤師だ。門前薬局は近くの医院から処方される薬剤を熟知しているので、在庫切れの心配もない。
院内での投薬を希望する患者さんも少なくない。医師には、薬剤師と同様に薬剤を管理し、投薬する資格はある。然し、自分のクリニックで薬を出す事は不可能だ。診療を第一優先にするべき医師に薬剤の管理、投薬の責任を負わせるのは無理な話だ。又、専門の薬剤師を複数人常駐させることも出来ない。某大学院では、診察の予約時間が決まっていても、待ち時間が3時間、診察5分、更に、院内で薬を受け取るのに1時間かかるそうだ。
抗生剤などを除いて、慢性疾患の薬は3ヶ月分まで“まとめ投与”が出来るという。然し、3ヶ月分まとめ投与された花粉症の薬を家族3人が分けて仲良く飲んだという話を聞いて驚いた。当人しか、花粉症の診断はついていないのだ。それ以後、私は4週間分しか投与しない事に決めた。
更に驚いた話がある。友人の内科医が不眠を訴える患者さんに、睡眠薬を一週間単位で投与していた。その患者さんは、その睡眠薬を飲まずにためておいて、頃を見計らって纏め飲みをして自殺をした。警察が介入してきて嫌な思いをしたという。
祖母の時代、我が家に常在してあった“越中富山のおき薬”につては、朧気な記憶しかない。

2019年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第120話「アレルギー性鼻炎」

 アレルギー性鼻炎には、通年性(一年中)アレルギー性鼻炎と季節性アレルギー性鼻炎(花粉症)の二種類に分けられる。詳しくは、病気の説明の文章をお読みいただきたい。
通年性アレルギー性鼻炎――
年間を通して増減はあるが、くしゃみ、鼻水、鼻づまりに悩まされる。

その原因はほとんどが、ホコリとダニだ。いくら、部屋の中をきれに掃除しても、ホコリは外から飛び込んで来るのだからきりがない。

寝具を外で叩いてホコリを落としたつもりでも、布団の中のホコリは、布団のまわり飛び散るだけで、部屋の中にしまう時には又布団に付着するから、ホコリの中に寝るようなものだ。私のように、部屋の掃除もろくにせず、布団も外に干したことはない不精な人間でも、アレルギーという高級?な体質とは無関係のようだ。プリン姫(私の愛犬)は、私のベットの中でくしゃみをすることが多いが、愛犬の方が高級な体質なのだろうか。当院の女性スタッフに僕の自室の掃除をしてくれといっても、笑うばかりで返事をしてくれない。

花粉症――
その代表は杉花粉症だ。通年性アレルギー性鼻炎と花粉症を合計すると、日本人の人口の2割以上だというから驚きだ。その原因は、日本人の食文化の欧米化、花粉量の増加、排気ガスと黄砂の増加による大気汚染が原因だというが、明確なことはわからない。

然し、アレルギー性鼻炎の患者さんが増えたことに間違いない。
杉花粉症の患者さんは、一年おきに増減する。杉花粉の少ない年の翌年は花粉量が多いようだ。自然界の掟だろう。
花粉症の患者さんは、天気の良い日には家の中に閉じこもり、雨降りの日に外出するべきだという。なお、杉花粉症の人は、帰宅時に玄関先で、着衣から花粉を払い落としてから、家の中に入るべきだという。もっともな意見だが実行不可能だろう。どうも現実をしらない学者の意見のような気がする。アレルギーの研究をしている友人の学者を問い詰めたら、笑って何も言わなかった。返事のないのも、一つの返事だろう。
我が家のように、毛長の犬と暮らしている家ではどうにもならない。
私が花粉症だったら愛犬と散歩にも行けない。

部屋の掃除、マスクと眼鏡をつけての外出、乾布摩擦等による心身の鍛錬等で、花粉症の症状を軽減できるものではない。所詮、畳の上の水練だ。
花粉症は命に関わる病気ではないから、我慢して放置するという考え方もある。
然し、正当な医学では血液検査でアレルギーの原因を確かめ、抗アレルギー剤の内服、鼻内噴霧薬、花粉のエキスを注射する減感作療法減感作療法(数年間続ける)、最近行われ出した舌下免疫療法(今は未だ一般化していない)等で治療するのが、本道だろう。尚、副腎皮質ホルモン剤を注射して花粉症の症状をすっとばしてしまうのは、その重大な副作用故に、悪徳医療の最たるものといわれている。大金持ちで花粉症に悩まされている私の友人は外国に別荘を作り、花粉の時期はその別荘に避難している。

2020年3月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第121話「医学部推薦」

 学部推薦は、高3の成績で決まる。医学部希望の私は3年生の時には、それに備えて猛勉強した。何の試験かは忘れたが、私はカンニングの疑いをかけられた。私の後ろの席に水球の猛者がいた。彼は水泳ばかりしていて、勉強はまったくしない。彼が、私の答えを写すために、私の答案用紙を後ろからひったくってしまった。魔の悪いことに、その時の試験官は担任の先生ではなかった。その馴染みのない先生が、担任の先生にすぐに報告したので。教員室に呼び出された。担任の先生は、水球の猛者が勉強をしいない事を良く知っている。「君が、彼から答えを聞く必要はないだろう。本当にカンニングをしたのなら、医学部推薦はなくなるぞ!“カンニングなぞしていません”と、教員室中に鳴り響くような大きな声で叫べ。後は自分が引き受ける。」私は、担任の先生の言葉通りに叫んだ。「帰って良し!」。私は担任の先生の粋な計らいで医学部に無事推薦された。

 医学部高学年の時の臨床講義で、重症な患者さんの症状を説明され、「これから、考えられる病気の診断名がわかる者は手を挙げて答えよ」、と、内科学の質問があった。私は、副腎の腫瘍(グラウィッツの腫瘍)ですと、得意気に答えた。教授が、「その通りだ!君は名医だ」。私は鼻高々だった。然し、この話には落ちがある。その患者さんが亡くなってから行われた病理解剖の結果は白血病だった。慶應病院の内科も、私と同じ誤診をしたことになる。

2020年4月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第122話「愛犬プリン」

 愛犬プリンは20歳、人間年齢なら100歳。私の人生の大半を一緒に過ごしている。
我が家は妻、娘二人との四人家族。そこに、プリンが入ってきた。犬は一家の中に、自分より下位に一人置くという。それが私のようだ。その証拠に、プリンは食事中、私に見られていると思うと、食べるのをやめて横を向く。

 私が横を向くと、又、食べはじめる。私をからかっているようだ。
然しプリンに助けられ事がある。数年前、出先で脚が痛くなった。痛い左脚を引きずりながら数時間かけて帰宅。あまりの痛さに出迎えたプリンを横抱きにしたまま、自室のベットに倒れこんだ。
ハット気が付くと、プリンの左脚が無く、プリンが3本脚。そして私の脚痛がなおっていた。ギョットしてベットにいるプリンを見ると脚が4本ある。プリンが助けてくれたのだ。

2020年5月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第123話「逃亡者」

 数年前、アニス(愛犬プリンの子供)が逃亡した。プリン一家が散歩中のアクシデントだ。あの小さなアニスが遠くに行けるはずがない。

私の家族、クリニックのスタッフが総出で近所を探した。公園にたむろしていた、ヤンキーな若者達も参加してくれた。一見こわもての彼等も極めて親切だった。湘南レディオも放送で協力してくれたが、夜になっても見つからない。明日の事にしようとやむなく帰宅。翌朝ゆかり(副院長)が近くの家の玄関先にチョコンと座っているアニスを発見。騒動の終わりだ。

私は慶応普通部(中学)の頃、鵠沼海岸の海岸線に住んでいた。
その頃の愛犬・ポインターが行方不明になった。

海岸線を江の島方面、更に茅ケ崎方面を家中総がかりで探したが、発見出来ずあきらめて帰宅。疲れはて横になろうと思い、布団が入れてある戸棚を開けるとチョコが布団の上にチョコンと座っていて、「何を騒いでいるの?」と、不思議そうな顔をしていた。

2020年6月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第124話「喫煙」

 最近、ある有名タレントさんが亡くなった。あまりテレビを見ないので、そのタレントさんの生前のことを知らなかった。晩年のインタビューを見て、彼がなかなかの人物である事を知った。惜しむらくは彼は、一日40~50本のヘビースモーカーだったとのこと。もし、彼が禁煙者であったら、5年、10年長生きしたかも知れない。惜しい事だ。
私も未成年の頃、喫煙者だった。電車の中で煙草を吸い、知らない人に𠮟責されたことがある。19歳の時に、電車のホームで喫煙している所を、刑事さんに見つかり、身分証明の提示を求められた。未成年者の喫煙を咎められ、学校、両親に通告すると言われたが、学校も、父親も存じていますと口答えしたえら、“何たる学校、両親だ”と、どなられた。事実、生理学の実習では、喫煙は実験室の外でするようにと言われていた。生理学の教授に、先生が許可したから、煙草を吸うようになったんです。刑事が学校、両親に連絡すると言っていたが、その後の音沙汰はなかった。

私は成人後、自分の意志で禁煙者になった。
煙草20本 500円 一月15000円。年間18万円が煙に消え、肺にニコチンが付着する。
喫煙者が悪なのではなく、煙草が悪なのだ。
あなたは、それでも煙草を吸いますか?

2020年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第125話「鵠沼海岸」

 新型コロナール感染症で国道34号線が交通規制された。“密”を防ぐために、若者を都会から海岸に誘導しようという作戦だ。
学生時代、私は国道34号線(ドライブウエー)沿いにあった別荘に住んでいた。ドライブウエーは、私が青春を楽しんだ海岸道路だ。今は二車線だが、当時は一車線で、両側が林道にかこまれていた。
終戦前、34号線を歩いていた私は米軍機に射撃され、松林に逃げ込んだことがある。海岸線に多数の軍艦が展望できたが助けに来てくれなかった。
終戦直前、東の空が真っ赤に染まった事を記憶している。東京大空襲で起こった火の手だ。その時、東京の我が家も消失した。
間もなく戦争が終わり平和が訪れた。
終戦直後は34号線の交通量が少なく、ローラースケートの練習に最適だった。鵠沼海岸から茅ケ崎海岸まで、ローラースケートで滑って行ったのは楽しい記憶だ。

段々と交通量が増え、米軍のジープが我が物顔に走るようになった。
「ギヴ ミー チョコレート」の時代到来だ。事実、海岸線に住んでいた知人女性が、米兵と一緒になりアメリカに行ってしまった。
更に数年後、鵠沼海岸は海の社交場となった。夏は海水浴の到来だ。海岸に海の家が多数できて、海水浴場がビーチパラソルを立ててくれるようになった。

海水浴には良い思い出、嫌な思い出も沢山ある。海岸友達が大勢できた事、ビーチベースボールを楽しめた事は良い思い出だ。

一番嫌な思い出は、カメラ好きな父が、全裸に近い姿で地引き網をしていた漁師の姿を撮影して、激怒した漁師にカメラを壊され、殴られそうになったことだ。その後、網元に頼んで漁師さんにお詫びして、和解が成立した。その漁師の名前は庄さんという。その後、庄さんと仲良くなり海岸生活がより楽しくなった。
私が小学生の頃、沖で”カツオノ烏帽子(電気クラゲ)”に襲われ溺れそうになった時、助けてくれたのも庄さんだった。

2020年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第126話「銀ブラ」

 銀ブラとは、銀座でブラジルコーヒーを飲む事で、ブラブラすることではないという。どちらでも良いが、若い頃は頻繁に銀ブラを楽しんだ。

銀座四丁目は、地価が日本で一番高価な所だ。四丁目交差点の少し新橋寄りに、大黒屋というお店があった。私の慶応高校時代の担任の先生は大黒屋の御曹司だった。私は、日本一の資産家の先生に、担任をして頂いた事になる。約30年程前にクラス会でお会いした時は懐かしかった。
大黒屋さんより、新橋よりにあった手袋屋さんの事も忘れられない。大学生の時、店頭にあった手袋を買おうとしたら、「学生には、その手袋は贅沢すぎる。こちらの安いのにしなさい。」と、アドバイスされた。この手袋屋さんも、慶応の先輩だった。
六大学野球の早慶戦で勝つと、慶応の学生は銀座へ行き、ライオンで乾杯する習慣があった。早稲田の学生は、新宿の歌舞伎町に繰り出すのが常だった。
東京だけでなく、藤沢駅の近くにも銀座通りがある。

更に、小田急線の鵠沼海岸駅の近くの商店街も銀座通りという。

私がインターンの頃に目の前で目撃した光景、が忘れられない。信号機のない交差点で、自転車に乗っていた高齢者が、常用車に接触しそうになった。車の運転席から降りて来た大男が、手を振り上げて高齢者をどなりつけた。私は大男のあまりの剣幕に驚いて、只、見守っていたが、通行中の女性がその大男の手を掴み静止させた。今、考えると凄く勇気のある女性だ。更に驚いのはその車の後部座席に、力道山(世界最強のプロレスラー)が悠然と座っていた。

2020年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第127話「アルバイト」

2020年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第128話「早慶戦」

 私が子供の頃は娯楽が少なく、プロ野球も職業野球と呼ばれ、今のような人気はなかった。王、長嶋が活躍するはるか以前のことだ。
私が幼稚舎(慶応の小学校)、普通部(中学校)の頃は、六大学野球の全盛時代で、特に早慶戦が最高のイベントだった。

野球は前シーズンの勝率によって、日程、組み合わせが決まる仕組みだ。それなのに、早慶戦のみはそのシーズンの最終戦と決められていた。ある年、明治大学、法政大学、立教大学から、早慶戦も順位で決めるべきだと云うクレームがついた。然し、東大が早慶戦は最終戦のままが良いとの説をとなえたために、早慶戦が最終との慣例は守られた。
幼稚舎出身の私は純粋の慶応ボーイだ。幼稚舎出身者は、特に幼稚舎ボーイといわれ、慶応の中でも特別扱いされた。

私が幼稚舎ボーイだった頃、舎長(校長)に他学校の先生が赴任なさった。「早慶戦などくだらない」と、発言して総スカンをくらったことがある。何しろ、早慶戦に負けると、涙を流す幼稚舎生が大勢いた頃の話だ。
一度、早慶戦で一週間学校が休みになった事がある。高校生の頃だ。
一勝一負で迎えた決勝戦は延長の上、引き分け。再試合は雨で順延、神宮球場で出欠席をとろうという話が出たほどだ。どちらが勝ったかは忘れたが、連日の野球観戦でくたびれたこと事は記憶している。

慶応勢の三色旗のソックスに白線が入っているのは覚えている。過去に完全試合をした時の記念だとの事だ。

小泉信三氏(慶応医学部の設立者・福沢諭吉先生の高弟)と、大熊重信氏との話し合いで早稲田は医学部の代わりに政治学部を創ったというが、本当のことは知らない。

2020年11月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第129話「入浴」

 大学病院勤務一年目、手術室で手洗いをしていた時、先輩に、その様な手洗いなら、「お手洗い」の方が清潔だと𠮟責去れた。そして、亀の子たわしを使えと言われたので、手術場の看護婦に、たわしの在りかを尋ねたら、あれは冗談ですよと笑われた。先輩に、「神聖な手術場で冗談を言わないでください」と叫んだら不思議そうな顔をされた。

亀の子たわしと、言えば私は子供の頃、きれい好きな父親に体をたわしで洗われ、五右衛門風呂に入れられるのが常たった。体がしみて痛かった記憶がある。

今はちがう。シャワーを使ってから、湯舟に入るのが普通のようだ。シャワーだけでも、お風呂に入ると言うらしい。
そこで、手術後の患者さんと看護師さんとの間に、言葉の行き違いが起こる。

今の皮膚科医は、へちまで体をこするのも、皮膚を傷つけるから手で洗えとの事だ。それも、石鹸を使わないほうが良いらしい。体につている垢は湯舟に入れば、自然にとれるという。患者さんが、「湯舟に残った垢はどうなるのですか?」と、質問したが、明快な返事はなかったと怒っていた。その患者さん、今後は一番風呂しか入らないと言っていた。
今(令和2年4月)、流行しているコロナ感染症の患者さんは、仕舞い湯に入るべきだとの説もある。

2020年12月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第130話「路傍の犬」

 私は数年前、交通量の多い道路を横断している老犬を抱きかかえ、道路わきに運び命を助けた。良い事をしたと今でも思っている。

さて、私の慶応義塾大学医学部時代の友人の話だ。
若い頃、彼は熱心に動物実験をしていた。実験動物はモルモットから犬猫に及んだ。
私はモルモットの実験は平気だったが、犬猫の時は横から見るのも嫌だった。「モルモットは、動物実験のために生まれ来たのだ」、という気持ちが研究者にはある。私も医学博士号取得のために、かなりの数のモルモットを犠牲にした。然し、犬猫は可愛がるだけの存在だ。
彼の動物実験が佳境に入ったころ、動物愛護団体が、某一流週刊誌に「彼の実験は残酷だ、あんな医者にはかかれない」と、実名写真いりで非難した。彼は、動物愛護団体のメンバーに、あなた達がつけている化粧品も、洋服の生地も動物実験で安全性を確かめられている。あなた方こそ動物虐待の恩恵を受けているのだ。彼の言い分も正しい。
別の話で、私は動物愛護団体に世話になった事がある
数年前の事だが、自宅の車庫に二匹の猫が捨てられていた。

猫が段ボールに入れられていた事を考えると、置かれていたと言う方が正しいかもしれない。動物愛護団体に電話相談すると、次週の指定日に鎌倉の公園で引き取るという。連れてくる前に、近くの動物病院を受診し、無病の診断書を交付してもらい,予防注射を受けてから、連れてくるようにとの指示だった。

2021年2月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第131話「私は騙されない」

 数日前、下水工事をすすめる男が玄関先に来た。必要ないと断る。偶然かたまたまか、その夜のテレビで、下水工事の詐欺が横行していると報じていた。
その数日後、若い男が玄関先から家の中を覗きこみ、畳の部屋のないことを確認して、商売にならないと言って帰っていった。畳をひきたかったらしい。

10年程前、保土ヶ谷に住んでいた姉が住まいを新築した。その屋根が、特別な原因なく、隣家の庭に落下した。怪我人がでなくてほっとした。後から調べると、屋根を止めていなかったとのことだった。
ひどい話だ。屋根のトラブルは未だある。自宅付近の屋根を工事していた屋根屋が我が家の屋根瓦が傷んでいるので、至急、瓦を大幅に取り替えた方が良い。自分の工事会社で安く請け負うという。その業者は断り、出入りの業者に修理を依頼した。出入りの業者曰く 「悪い所はありません。修理の必要はありません」。油断もすきもない。

更に数年前、我が家に宅急便で瀬戸の置物が届いた。かなり高額な請求書が入っていた。家中、そんな注文をした者はいない。ゆかり副院長が詐欺だと看破して、宅急便業者に連絡。すぐに引き取ってもらった。油断もすきもない。後で聞いた話だが、東京池袋では、かなり大きな置物詐欺が発生したとのことだ。長女の機転で難をまぬかれた。ますます、長女に頭があがらなくなった。
これもかなり古い話だが、車の接触事故の後始末に相手の家に行った。その時、「事故のことは全て任せて下さい」をモットーにする超一流保険会社の女性社員を同伴していた。相手の家に近づくと、保険会社の社員が急に、「私は女だから、お客さんが自分で交渉して下さい」、と言って急に逃げてしまった。相手が紳的な人だったから良かったが、保険会社の無責任さには呆れ果てた。勿論、その保険会社は解約した。
私の姉が、某銀行に勤務していた大昔の話だ。札束を数えてながら、手触りで偽札を発見し、表彰された事がある。姉ながらさすがプロだと尊敬した。
その姉が、退職後、暇になり、犬を飼いたくなった。自分の欲しい犬をケンネルで決め、子供にお金を渡してその犬を連れて来るように頼んだ。子供夫婦が連れてきたのは猫だった。私は姉に、ケンネルで見た犬は猫が化けていたのだろうととりつくろった。酷い話だ。

2021年3月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第132話「飛行機」

 コロナに奮闘する医療従事者への感謝の念として、飛行機が4機飛んだという。美しい話だ。どの位の上空を飛行したのだろう。
以下、古い話だ。

「東部軍管区情報 ! 東部軍管区情報 ! 」
「敵ヒトキ日本列島に接近す」太平洋戦争末期に。米軍機の襲来を国民に知らせるラジオのメッセージだ。この放送があると慌てて防空壕に避難した。爆弾の音を遠くに聞き怖かった。

今は平和だ。ゴルフ場でプレイをしている時に、低空を飛行機が飛んで来た。仲間とあの飛行機は上空200メーター位だろうと話しをしていたら、別の同伴競技者(私より年上)が全然違うという。あまりに自信ありげなので、何故、言い切れるのかと質問したら、彼は戦争中、B29(米軍機)を撃ち落とす高射砲部隊の部隊長であったとの事。そして、付け加えた
「富士山方面から侵入してくる米軍機には高射砲は当たらないが、爆撃が終わって、千葉県沖から帰っていく敵着には命中する事が多い。たまたま撃ち落とした米軍機から、部下がチョコレイトを見つけて、喜んで持ち帰ってきた。あれじゃ、戦争に勝てませんよ。」現場の部隊長だった人の言葉だけに重みがあった。

2021年4月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第133話「怒り心頭」前編

 今の若い先生方はご存じないと思うが、私が医学部高学年の頃、「ベン・ケーシー」というテレビドラマ(モノカラー)が人気をはくしていた。私は今でも、そのビディオを時々みている。ケーシー医師は、極めて厳格な脳神経外科医で、私の同級生の数人が、ケーシー医師にあこがれて、脳神経外科医の道を選んでいる。
さて、そのドラマの一場面をご紹介する。
ケーシー医師が患者に、「貴方の主治医からの紹介状には、脳神経外科的の検査をして欲しいと書かれていたので、私は必用な脳神経外科的な検査を施行しましたが、検査に異常は認められませんでした。後は、精神科の医師に任せた方が良いでしょう。私は、義務として、その専門医をご紹介します。その旨、貴方の主治医にもご報告いたしました。」
長々とベン・ケイシーの話をここに書いたのは、責任あるケーシー医師と全く反対の無責任きわまりない医師に、怒り心頭に達しているからだ。

この原稿を書いている9月22日の3週間程前、私の姪(眼科医)が、「自分の夫(医師でない)が、昨日から強度の上腹部痛と背痛で騒いでいる。何処の先生を受診したらよいと思う?」、と電話で相談してきた。私は、とっさに胃潰瘍の穿孔を連想して、内視鏡を得意とする、胃腸科クリニックに、「親戚の者ですが、胃痛が激しいので胃の内視鏡をお願いします。」と、その日の朝一番に電話で丁重にお願いした。

2021年6月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第134話「怒り心頭」後編

 その医師から、夕方「胃の内視鏡には、病的変化はありません。特に何もせずにお帰りいただきました。」と、電話で返事があった。然しその頃には、患者自身は、激痛が耐え難きものとなり、緊急病院に救急車で受診していた。その結果、胆石による胆管破裂で緊急手術。生命はとりとめたものの、「手遅れになるところだった」、と救急医に怒られたという。然し、その直前、胃腸科クリニックを標榜する医師の診察を受けている。
私は確かに、「内視鏡をお願いします」、と頼んでいる。診察をお願いしますとは頼んでいないかもしれない。然し、腹痛に苦しんでいる患者を直接診れば、消化器の専門医ならば、患者に接しただけで、内視鏡の世界ではなく、他の疾患を連想して、それに対応すべきだったのではなかろうか。私は電話の仕方の誤り、紹介先の医師の選択を間違えた事に、自分の愚かさを嘆かずにはいられない。そして、犠牲になりかけた親戚に対して自責の念にかられている。“内視鏡馬鹿”が最近増えている事をその後知った。

耳鼻科医の私は、他の医療機関から、紹介された“耳痛”の患者さんを診察する時、視診、触診で、耳疾患がなかったら、他の疾患に思いをはせる。責任ある耳鼻科医なら当然だろう。例えば、耳性帯状疱疹、咽喉頭疾患、歯科・口腔外科的疾患、整形外科的疾患、左耳痛なら心臓疾患迄考え、適切な対応をする。それが、人の体を預かる医師として当然の義務だろう。
くどい様だが、私の頼み方が悪かったからと言って、彼の無責任さを私は許せない。

2021年7月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第135話「煎餅屋」

 横浜桜木町駅のそばを伊勢崎町という。そこから、小さい橋を渡ると馬車道という商店街に入る。その馬車道の入り口に写真屋さんがあった。そのウインドウに美しい女子学生の写真が飾られていた。歩行者が脚を止めて見るような美人だった。彼女は花見せんべいの跡取り娘だ。花見せんべいは馬車道の中央にある名店だ。そこの息子が店をつがないで、慶応医学部に入った。学部入試の直前に受けた全国模擬テストで全国3位になった程の秀才だ。そして、私達は無二の友達になった。彼の家は三渓園に隣接してあり、自宅の隣が煎餅工場だった。彼の家に遊びに行くと、煎餅の食べ放題だった。

数人の親友と彼の家に行き、机を囲み、ドラム缶に入った花見せんべいを食べ放題。食欲旺盛の学生が、ワイワイガヤガヤに言いながら食べるのは楽しい一時だった。隣の部屋に彼の妹がいるのを知らずに、医学生の他愛ない雑談を全部聞かれてしまった。

2021年8月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第136話「防空壕」

 この写真は私の幼児期のものだ。アメリカに留学していた父は、太平洋戦争の初頭から、アメリカの方が日本より軍備において充実していると、断言じていた。
米軍機による爆撃を予期し開戦直後、庭に防空壕を作った。
真実かどうかは知らないが、B29の爆弾には耐えられると豪語していた。然し、米軍は爆弾でなく、焼夷弾を使用した。私の家は全て炎上してしまった。そして、爆撃に耐えるはずの防空壕も、家とともに炎上した。防空壕の中に、隠匿してあった食料も全て燃えた。その煙が数日間ただよっていた。通行人が、「食べ物を隠しているから、罰があたったのだ」、と皮肉を言った。その通りだろう。

家財産は失ったが、防空壕のお陰で家族は全員無事だった。
米軍機が、「ナチス・ドイツは壊滅せり、日本も::」と、降伏をうながすビラをまいた。又、女性の声で日本は負けたという米軍の女性アナウンサーの声も忘れられない。

2021年9月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第137話「イチロー」

 イチローが世界の野球界に名をとどろかす名選手であることに異論を唱える人はいないだろう。
以前、テレビに放映される自分のファインプレーの数々見ながら、イチローが語った言葉には凄みがあった。
「自分の最高のファインプレーは、テレビに写っていない。照明が目に入って見えないままに、この辺だろうとグラブを出したら勝手に外野フライが入っていた。あの時、自分の目が見えなかった事を知っている人はいないだろう。」
私にも同じような経験がある。魚の小骨が喉に刺さった患者さんが来院した。折り悪く電気工事で電気がつかず、患者さんに口を開けて頂いて、照明なしで小骨をとったことがある。プロの耳鼻科医の経験と感だけが頼りだ。

かなり前の事だが、著名な脳科学者とイチローが、テレビに共演しているのを見たことがある。医学の分野の論戦で、舌鋒鋭いイチローに脳科学者が兜を脱いた事がある。共演していた女性タレントは笑ってごまかしていたが、テレビを見ていた私は驚いた。脳科学者が医学的なことで、イチローに言い負かされたのだ。イチローの打球も早いが頭も怖いように鋭い。
然し、そのイチローにも優しい面があるようだ。これもテレビで見たのだが、イチローは“一休さん”という大きな犬を家の中で飼っている。犬を家の中で飼っている人は、皆、心優しいと言われる。私も家の中で犬を飼っているが、我が家のは小型犬だ。イチローと私の体力差、仕方がない。
知らず知らずの内に、イチローの事を書いてしまった。

2021年10月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第138話「若き日」

 慶応大学病院では、患者さんの採血はインターンの仕事だった。
開業医の家に育ち、自宅の医院を手伝っている友人は、採血を何気なくこなしていたが、私は人の体に針を刺したことがない。
当時の慶応病院は、採血場に、ベテランの看護師とインターンの二人を常駐させていた。二人の受付窓口は違う。いつも看護師の方に行列ができ、インターンの側はガラガラだった。馴染みの職員が採血を希望して来たので、「私の方が空いているから此方でやろうよ」と、言ったら断られ、いたくプライドを傷けられた思い出がある。

今の慶応病院は違う。大きな採血室の中で、15人くらいの技師が一斉に採血している。普通一日で2000人位、最高記録は4000人だったという。
私がインターンだった頃、代々木の病院で当直のアルバイトをしていた。当直料は一泊500円くらいだったと思う。
私が当直していた日曜日、急患が来院した。顔を見て驚いた。私の慶応高校時代の親友が、女性を連れて来たのだ。

やむなく、当直医をよんで診察。急性虫垂炎で手術を施行。
おり悪く、その当直医も医師免許をとって一年目で、虫垂炎の手術は初めてとのこと、助手はインターンの私。あまりの手際の悪さに手術時間が長引いた。看護師が気を利かして医長に連絡。医長に代わって直に手術終了。その助手はこっぴどく怒られた。私はインターンだったために無罪放免。
   友人の一言。

その通りだが、その後、助手の彼は大病院の院長としてその名を馳せた。私は現在に至る。

     若き日の苦悩の逸話です。

2022年2月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮

第139話「胸部大動脈瘤 青天霹靂」

 昨年暮、微熱が続くため、近くの内科を受診した。インフルエンザテストは陰性。超音波で大動脈瘤を指摘された。しかも、破裂寸前の危険な状態であるという。思いもしなかったことだ。同級生の内科医から、慶応医学部循環器外科の志水教授が大動脈の手術に関しては日本一の熟達の士であるとの事を聞き、慶応病院の心臓循環器外科を受診した。

 志水教授に一度お会いしただけで、何のためらいもなく手術をお願いし、二号館七階の個室に入院した。母校の慶応病院、全てが安心だ。
 3月検査入院
 4月前部大動脈瘤人工血管置換術
 5月左大腿部蜂窩織炎  不測の事態
 7月ステント挿入
 
最初の手術は7~8時間位を要した大手術だった。然し、全身麻酔による術後せん妄のため、集中治療室に入った三日間の記憶がない。
麻酔が覚醒してからの二号棟七階の入院生活は、家族も信じてくれないが、むしろ楽しい愉快な3週間だった。疼痛もまったくなく鎮痛剤の必要もなかった。
慶応病院は本当に良い病院だ。表玄関の入り口に置いてある福沢諭吉先生の大きな像がその象徴だ。病室の窓からは、ペン印と三色旗が見え、60年前にこの中で学生生活を送ったのかと思うと懐かしさがこみ上げた。

7月から8月にかけては、在宅よりも入院していた方が長かったことになる。その間お世話になった二号棟七階の看護師さん、リハビリ室の指導員方々の思いやりのある優しさは忘れる事ができない。

脚力の衰えを心配して病棟の廊下を毎日1500メートル位歩いた。私の歩く姿は病棟の名物になったようだ。

慶応病院の2号棟11階には帝国ホテル直営のレストランがある。神宮外苑の森、東京オリンピック競技場の工事現場が一望できて素晴らしい展望だ。昼食は病院食を避けてしばしば利用した。看護師さんも笑いながら見逃してくれた。

家族は見舞いに来てくれたし、私の退院の日時を知っていたから、私が帰宅した時、当然のように出迎えてくれた。が、愛するプリンの驚きの表情は忘れることは出来ない。プリンは驚きそして涙を流した。私も泣いた。二人とも長生きしよう。

後記:最初に私の大動脈瘤を指摘した下さった命の恩人は、藤沢駅南口近くにある尾崎クリニックの石塚先生だ。感謝!感謝!
長期間の入院中、自分のクリニックの診察を安心して任せられた娘二人、スタッフ全員に深く感謝している。

2022年12月1日

矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮