院長余話
- 「院長余話 まえがき」
- 第1話「インフルエンザ予防について」
- 第2話「診断・治療は専門医で!」
- 第3話「セラペリオー」
- 第4話「良質な開業医」
- 第5話「私自身の禁煙体験記」
- 第6話「経験から学ぶ医療」
- 第7話「カメチャン」
- 第8話 「ウサギチャン」
- 第9話 緊急速報「危険 耳そうじ!」
- 第10話「熱中症」
- 第11話「急性中耳炎の治療方法:学者と第一線開業医の考え方の相違」
- 第12話「滲出性中耳炎の治療」
- 第13話「マリンスポーツ」
- 第14話「病気の説明はわかりやすくていねいに」
- 第15話「杉の子 何の子」
- 第16話「杉の子 悪魔の子」
- 第17話「学校保険医の表彰」
- 第18話「新入学の皆様おめでとうございます」
- 第19話 「こどもの危険」
- 第20話「こどもの危険 続」
- 第21話「医師としての第一歩」
- 第22話「不思議な話」
- 第23話「診療所の防犯」
- 第24話「悲しい別離の表情」
- 第25話「二代目チョコ」
- 第26話「中耳炎の診断」
- 第27話「坂の上のクリニック」
- 第28話「杉花粉症のレーザー治療」
- 第29話 「当院のインフルエンザ対策」
- 第30話「母の生涯」
- 第31話「クリニックの看板」
- 第32話「嬉しい話」
- 第33話「ペットの癒し効果」
- 第34話「耳鼻咽喉科疾病と煙草の害」
- 第35話「耳鼻咽喉科疾病と煙草の害」
- 第36話「猛暑日本列島」
- 第37話「梅チャン先生」
- 第38話「ノドの精密検査」
- 第39話「プリンの御正月」
- 第40話「干支とペット」
- 第41話「プリン姫」
- 第42話「私の院長室」
- 第43話「犬のしつけ論争」
- 第44話「語学教育」
- 第45話「専門医の優れた感と技術」
- 第46話「神業」
- 第47話「開業医の喜び」
- 第48話「診療と平和」
- 第49話「武見太郎先生」
- 第50話「病巣感染(びょうそうかんせん)」
- 第51話「支配者プリン」
- 第52話「福沢諭吉先生」
- 第53話「雪かき」
- 第54話「我が開業奮闘記」
- 第55話「ナイチンゲールの手」
- 第56話「私とパソコン」
- 第57話「口の中の不快感」
- 第58話「4畳半の一生」
- 第59話「軍用犬」
- 第60話「理想的なクリニック」
- 第61話「藤沢ドクターズ(藤沢市医師会ゴルフ部)」
- 第62話「医療の守備範囲」
- 第63話「プリンチャマ」
- 第64話「ハクビシン」
- 第65話「人工股関節」
- 第66話「花粉症」
- 第67話「三田文学」
- 第68話「果物アレルギー」
- 第69話「水泳教室」
- 第70話「耳そうじの危険」
- 第71話「プリンへの謝罪」
- 第72話「耳管開放症」
- 第73話「哀しい別れ」
- 第74話「急性中耳炎と滲出性中耳炎」
- 第75話「姉弟愛・姉妹愛」
- 第76話「インフルエンザ」
- 第77話「春夏秋冬」
- 第78話「恩人父子」
- 第79話「家庭における幼児の危険」
- 第80話「耳鳴り」
「院長余話 まえがき」
私は矢野耳鼻咽喉科のホームページの中に院長余話というコーナーをもうけた。
日々、私が考え感じている事、そして医師として積み重ねている経験を、そのまま院長余話に書き続けようと思っている。その雑文をご一読いただき、矢野潮の人間性を少しでも知って頂ければ幸せだ。
私は生涯現役を貫こうと思っている医師であって、文章を書くのは全くのしろうとだ。私の拙い文章が世間の目に触れるのは恥ずかしい限りだ。然し、逆に言えば著述家ではないのだから、文章がへたでも構わないではないかと思い直すことにした。
文章の表現能力、語彙不足は、随所に写真を挿入する事でおぎなうつもりだ。
毎月、話題を変え更新するので、ご笑覧いただきたい。
第1話「インフルエンザ予防について」
インフルエンザのワクチン接種、診断・治療方法についてはテレビ、新聞等のマスコミが、毎日のように報道しているとおりである。
さて、インフルエンザの予防について、面白い話がある。
私は子供の頃から、父親(医師ではない)から、カゼの予防には、「ウガイが重要だと」、と厳しく教えられ実行していた。
ところが、「ウガイはカゼの予防に効果無し」、と慶應義塾大学医学部時代、内科学の講義で教わり驚いた。ノドの粘膜に付着したカゼ・インフルエンザのウイルスは、数秒後にはノドの粘膜下に侵入してしまう。ウガイをしてもウイルスを除去することが出来ず無意味だというのが講義の根拠だ。
50年以上前に受けた内科学の講義だが、信じていた父親の教えと違っていたので鮮明に覚えている。
その後、ノドを専門とする耳鼻咽喉科医となり、カゼの予防には、“ウガイ・手洗い”を励行するポスター、マスコミの報道を見るたびに気になって仕方がなかった。
アメリカの医学界でも“ウガイ”の効果は認められていない。最近、やっとマスコミも気づいたのか、今回のインフルエンザ騒動では、イフルエンザの予防には、“ウガイ・手洗い”と言っていたマスコミが、“手洗い・ウガイ”と順番を変えた。昨日放映のプロジェクトⅩ(NHK)では、インフルエンザの予防に、“ウガイ”という言葉はいっさい出なかった。
50年以上前の慶應義塾大学医学部内科学講義を記憶していた私が正しかったのだ。
誤解しないで頂きたいのは、“ウガイ”が有害だというのではない。
“ウガイ”をすることは、ノドにうるおいを与え、ノドの爽快感を感じさせる。
爽快感は精神的にも、身体的にも良いことだ。
“手洗い”を重視して、元気にこの冬をのりこえよう。
2009年11月21日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第2話「診断・治療は専門医で!」
医学会では、医師の専門分野を以下のように分類している。
内科、小児科、外科(脳神経外科を含む)、整形外科、形成外科、産婦人科、皮膚科・泌尿器科、眼科、精神科、耳鼻咽喉科。
私は慶應義塾大学医学部を卒業後、慶應義塾大学耳鼻咽喉科教室に入局し、耳鼻咽喉科の医療を学び、医学博士号を取得した後、耳鼻咽喉科医一筋で診療に励んで来た。
当院では、院長である私と、最新の耳鼻咽喉科医療を学んだ長女(副院長)、及び同様に耳鼻咽喉科専門医である次女との3人連携で、きめ細かい耳鼻咽喉科専門医療を行っている。又、耳鼻咽喉科領域の癌の専門医である東海大学医学部付属病院の濱野講師が毎週木曜日午後診療にあたっている。
矢野耳鼻咽喉科の患者さんの99%が、“耳鼻ノド”の病気であるのは当然で、私共は自信をもって毎日の治療に専念している。
然し、内科的、小児科的、脳神経外科的、整形外科的、皮膚科的、精神科的の病気の疑いある患者さんも混在している。それを見落とさないためには、医師の経験、注意深い観察力、慎重さが必要だ。
特に、幼小児の病気は急変することがあり、小児科専門医との緊密な連携が必要なのは当然だ。
耳鼻咽喉科の分野だけでも、医療器具の急速な発達による診断・治療の複雑化は著しく、自分の専門分野のみの医療に専念することが、良心的医療だと私は確信する。
藤沢市は、医師が一人しかいない無医村でも、孤島でもない。その道の優秀な専門医が多数存在している。
“病気はその専門医で”が、私の信念だ。その意味で、最近言われている“家庭医”は、今の日本にはなじまないような気がする。
昔の人はうまいことを言った。
「餅屋は餅屋!」。
少し卑属的な表現だが、医療界にも当てはまる名言だと思う。
2010年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第3話「セラペリオー」
3時間待ちの3分診療、これが、医療機関に対して患者さんが持つ不満の第一である。」
ある講演会での、某新聞主筆の方の発言だ。この事は私自身も日頃から苦慮している事でもある。その方に私は次の質問をした。「一人の患者さんに充分時間をかけて対応すれば、他の患者さんをお待たせする時間が長くなる。待ち時間をへらすためには、一人当たりの診察時間を短くしなければならない。当然の結果として、説明が不充分になる。この矛盾を解決する方法があれば教えて頂きたい。」その方も、具体的な方法論はお持ちではなかった。
以上は前置きだ。
当院では、“充分な説明・待ち時間の短縮”を両立させるために次のような努力をしている。
★二人の耳鼻咽喉科専門医による診療体制。(3人の専門医が診療している時間帯もある。)病気の説明は、スタッフに任せず医師が必ず自分で行っている。時間はかかるが、患者さんに安心して頂くには、絶対に医師自身の説明が必要だ。
★言葉による説明以外に、私の手作りの耳鼻咽喉科疾病の説明書を患者さんに手渡して病気に対する理解を深めていただくようにしている。
★受付、看護助手を増員し、診療の円滑化を実行している。
★会計、領収書、処方箋の発行をコンピューター化し、診療後の待ち時間を短縮するように努力している。
★予約電話を導入して、携帯電話、パソコンからの予約も可能にしている。直接来院した方の枠も確保してある。詳しくは電話で御確認頂きたい。
★医師の判断で、高熱の方、ひどいめまいの方、出血している方、呼吸困難等重症の方、お体が御不自由な方の診察は優先的に行うこともある。御了承して頂きたい。
私達医師が日常使う“セラピー(治療)”という言葉は、セラペリオー(ギリシャ語)を語源とし、“治療”と、“慰める”、という二つの意味を持つという事を最近知った。
「セラペリオー」を当院医療の原点とし、ヒポクラテスの誓いを忘れずに、日々の診療を行う事を決意している。
(ヒポクラテスについては
後日この院長余話でふれる)
2010年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第4話「良質な開業医」
1人前の医師になるためには、医学部を卒業し、医師免許取得後、約10年の研修が必要とされる。
その後、我々医師は自分の性格、家庭の事情等で、1)医学者、2)大学病院等の病院勤務医、3)開業医のいずれかの道を選択する。
生まれつき、“人間好き”である私は、慶応義塾大学病院及び関連病院で耳鼻咽喉科学を習得した後、迷わずに開業医の道を選んだ。
医学者、大病院の勤務医は、“医学好き・学問好き”であれば充分で、“人間好き”である必要はない。そのことは、私が共に学んだ慶応医学部同級生が卒業後歩んでいる人生を見れば明らかだ。
医学知識にたけていても、人間嫌いで
は良質な開業医にはなれない。人への“思いやり・優しさ”こそ、開業医が生まれつき身につけていなければならない資質だ。又、無口では開業医としては失格だ。“お喋り”と云う言葉は普通あまり良い意味では使われないが、苦痛、不安をかかえて診察をうけにみえた患者さんを対応する医師が無口、陰気では患者さんの不安はますばかりだ。
更に、開業医は自分の家族、家庭を愛するように、スタッフ、自分の診療所に深い愛着を持たなければ、心温まる雰囲気をつくることは出来ない。
自分の分身である「矢野耳鼻咽喉科」で、患者さんに接することが、私の最高の生き甲斐であり喜びだ。
院長である私、副院長の長女、次女は常に誠意をもって患者さんに接している。
御来院の上お確かめ頂きたい。
2010年3月15日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第5話「私自身の禁煙体験記」
2010年4月1日、全国初の「受動喫煙防止条例」が神奈川県で施行された。喜ばしいことだ。
健康にたずさわる医師の一人として、愛煙家(正確には哀煙家というそうだ)が、自身の健康のため、家族、周辺の人々のために、完全禁煙なさることを願って、私自身の禁煙体験を記す。御一読いただければ幸せだ。
私自身は慶応大学医学部学生時代の6年間かなりのスモーカーであった。1日20~30本吸っただろうか。
私よりもヘビースモーカーであった父が脳梗塞でたおれたのは、私が医学部4年の時だ。父は以後、半身不随、言語障害をおこし、2年間寝たきりのまま回復することなく50才台の若さでこの世を去った。亡くなったのは私がインターン時代のことだ。
私は、晩年の父の哀れな姿、その父を介護する母の苦労をみて、禁煙することを決意した。ヘビースモーカーであった父が反面教師として私に禁煙の必要性を教えてくれたのだろう。父から息子への最後のメッセージだったのかもしれない。
そして、私が禁煙に成功した裏に忘れてはならない二人の恩人の存在がある。
一人は父の主治医であり、“内科学の神”といわれた坂口康蔵先生だ。坂口先生は、母校東京帝国大学内科学教授・同大学病院院長・貴族院議員・国立第一病院院長を歴任された方で、当時の日本内科学会の第一人者だ。当時のきわめて封建的な医学界で、一医学生が直接お会いできるような方ではなかった。しかし父が亡くなった後、私は一人で坂口先生の御自宅に御挨拶に伺った。そのおりの緊張感を今でも鮮明に覚えている。その時の坂口先生の教えが、その後の私にとってかけがいのない教訓となった。
坂口先生は書斎で、私に喫煙の弊害を強く述べられ、私が禁煙を決心する源をつくって下さった。現在のように“喫煙即ち悪”という時代ではない。医学生が実験中に実験室内での喫煙を許可されていた頃の話だ。
そして、私が禁煙にふみきったのは、インターンで放射線科を実習している時だ。禁煙当初の2週間は禁断現症で目がまわり、何事にも集中できなかった。その旨をインターンの指導者であった小林公治先生に御相談した。その時の小林先生のアドバイスは、「良い医師になるために、禁煙を貫け!放射線科の実習は出席するだけでかまわない。調子の良い時に個人教授するから、夏休みにでも申し出よ。」今、考えると涙のでるような尊い助言だ。
昔のことで良くは覚えていないが、約3週間でタバコの禁断現症から抜け出せたような記憶がある。その後、私は一本も煙草を吸ったことはない。父より20年以上も長生きをしているのは、禁煙をつらぬけた故だと思う。
今、私が所属している藤沢市医師会は禁煙運動にきわめて熱心で、43の医療機関が健康保険適応の禁煙外来を行っている。これは対人口比から換算すると神奈川県で最も多い状況だ。
私自身は禁煙外来を行っていないが、その代わり藤沢市医師会の中で最も熱心に禁煙治療に情熱を傾けている先生をご紹介する。長谷内科医院院長・長谷章先生だ。長谷先生は、藤沢市医師会禁煙運動推進委員会委員長の他、禁煙運動に関する多くの要職につき、今回の神奈川県の受動喫煙防止条例成功の功労者だ。
実を言うと、私も藤沢医師会の禁煙運動の先駆者の一人だ。内科の青木龍夫先生と二人で藤沢市医師会の理事会を禁煙にした。30年前の事だ。残念だが藤沢医師会では私の功績を忘れているらしい。
2010年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第6話「経験から学ぶ医療」
医師はその専門知識を医学部の講義、大学病院および関連病院での実地研修、学会、研究会、医学書等から学ぶ。然し、長年の開業医生活で多くの患者さんに接しているうちに、重要な経験的知識を自然に習得することが出来る。以下、私の経験が役立った実例をご紹介する。
「2年以上前から、耳の中でガサガサ音がして、気になって仕方がないが怖くて耳鼻科を受診することができない。悪い病気だろうか?」、と未知の患者さんから電話相談を受けたことがある。「耳の中に髪の毛が入っているのでしょう。取り除けば、なおりますから怖からずに診察においでください」、という私の返事で非常におくびょうな中年の女性患者さんが友達につきそわれて来院。私が予想したとおり耳の中に2cmほどの長さの髪の毛が1本あり。1秒で除去。「この2年間の苦しみは何だったのでしょう。早く診察を受ければよかった。電話だけでなぜ髪の毛とわかったのですか?」これが患者さんの質問だ。実は耳の中でガサガサ音がしたら、髪の毛が入っていることが多いという事を私は経験的に知っていたのだ。
やはり中年の患者さん、「お恥ずかしいのですがーー」、私はそこで患者さんの言葉をさえぎり、「何の魚の骨を引っかけたのですか?」。患者さん、「何も言わないのにどうして魚の骨とわかったのですか?」
中年以後の女性から、「お恥ずかしいのですが」、という言葉がでたら、魚の骨をノドに引っかけたのにきまっている。これも私の経験だ。
次は、“口の中の苦さ”で悩んでいた患者さんの話だ。この方は、原因究明のために、大学病院で胃をはじめ全身の検査を受けたが、異常が見つからず困りきって私のところに相談に見えた。目薬を常用していることを問診で確かめ、2~3日間、目薬の使用を中止して様子をみるようにアドバイスした。それだけのことで口の中の苦さが消えたと、私に深く感謝してくださった。私にとっては何でもないことだ。その少し前、私自身が目薬を使用してその苦さにおどろいた経験が役だったのだ。
“鼻の中の悪臭が強くなり、膿のような鼻汁がだんだんふえてくる。抗生物質やカゼ薬を長期のませているが効果がない”、と心配して幼児をつれてみえるお母様が時々おいでになる。話をうかがうだけで診断は簡単だ。鼻の中にチリ紙か、綿花を幼児自身がいたずらに入れて、それがくさってしまったのだ。ピンセットで取って終わり。そういういたずらをするのは2才の幼児に多い。
今回、私が書いたことは、臓器移植、癌の手術等から比べれば、小さな小さなことかもしれないが、然し一般の患者さん、開業医にとってはきわめて大切なことだと思う。
「矢野耳鼻咽喉科」の私の後継者である長女の副院長(ゆかり)、次女(さゆり)には、私の貴重な経験を詳しく伝授してある。二人が自分自身で会得する経験に、私から学んだものを加味して、私以上の優れた耳鼻科専門医になると信じている。
2010年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第7話「カメチャン」
少し旧聞に属するが、甲羅に「カメデス」と落書きされた亀をテレビでみた。亀の甲の落書きは脱皮して自然にとれるそうでだが、不愉快ないたずらだ。
口直しに亀についての面白い話をご紹介する。熊田藤作先生(元東京家政大学院教授)からうかがった逸話だ。以下は亀田先生のお話。
「ペットショップの水槽にいた数多くの亀の中から、偶然に目が合った一匹を何気なく買ってきた。現在の推定年齢は10才、甲羅の大きさが3センチの赤耳亀。“カメチャン”と名付けた。自分より妻の方になついた。夫婦のベットルームの毛布の中で眠り、9時に起床してすぐに妻の所に行く。妻との握手が朝の挨拶で、妻が可愛い可愛いと全身をさすると、尻尾を振って喜びを表す。妻は“カメチャン”に接している時は必ず話かけている。数分すると自分からお父さんの方に行きたいと意思表示し妻の手からおりる。自分の手の上にのせ、いろいろと話しかけながら遊ぶ。その後は、台所、洗濯場等にいる妻の後をカタカタと追う。疾走することもある。晴れの日は展望台から外を見るのが日課。空腹になると水槽で食事をする。妻が出かける時は、その持ち物で長時間の外出か、近所のお使いかを察知する。妻が帰宅する音を聞くと玄関のたたきで待つ。妻の外出が長時間の時は甲羅を自分にくっつけ、赤ちゃんのようにあまえる。夕食後は抱っこしてほしいので足元に来て見あげる。この抱っこは眠るための準備で、妻の存在を確かめ安心してから眠りにつく。亀という原生動物が言葉を理解するはずはないが、絶えざるスキンシップから自分が可愛がられていると感じ、自分が家族として認められていることに自信をもっているようだ。常に誠意をもって話しかけ体をなでることが硬い亀の甲羅を貫き、スキンシップが生まれるのだろう。愛も継続が大事だと思う。夫婦も亀も完全に家族の一員として互いに認め合っている。
実は、このカメチャンの話は耳鼻科診療とも密接な関係がある。最近はペット愛好者が増加したことによる動物アレルギーの患者さんが目立って多くなった。犬、猫、ハムスター、モルモット、兎、鳥類などはアレルギー疾患の原因となる。しかし、家族のアレルギー症状が悪化したからといって、飼っているペットを捨てることは動物愛護の精神からも道義的にも許されことではない。
アレルギー体質の家族は最初から毛長の動物を飼うべきではない。愛犬家の私は子どもさんがペットを欲しがる気持ちはよく理解できる。しかし、アレルギーの専門医としては症状の悪化を黙視することは出来ない。そこで私はアレルギーの原因にはならない爬虫類、両棲類をペットの候補としてすすめる。このカメチャンのように、飼い主にこれほどなつくなら亀も立派なペットになるではないか。
そこで耳鼻咽喉科専門医からの提言! “ペットに亀を選ぼう”
2010年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第8話 「ウサギチャン」
“カメチャン”の次は“可愛そうな兎”の話だ。知人の医師の娘が深く考えもせず子兎を飼った。しかし、その家の愛犬と兎の折り合いが悪いため、檻の中で兎を飼うことにした。
檻から外に出してもらえなかった兎は、数年後には運動不足のため、檻から出そうと思っても出せない程の肥満兎になりはてた。又、檻が冷暖房機の吹き出し口の前に置かれていたので、夏には吹きつける冷気のために冬毛がはえ、温風があたる冬は毛が抜けるという夏冬の逆転現象が兎におこった。その兎は人間の年に換算すると、150才位まで生き続けたという。
飼い主の医師は、「自然に反した冷暖房、運動不足による肥満も健康に悪いとは限らない。長生きした兎がその証拠だ」、と話していた。可哀想な兎への憐憫の情からの言い訳だろうが、医師らしくない言葉だ。
冷暖房の効きすぎ、過度の肥満は健康への大敵だ。
適度に室温を保ち、適当な水分と栄養をとり熱中症に気をつけて、元気に夏をのりきりたい。
最後に掲載する写真は、私が校医をしている亀井野小学校の生徒達に可愛がられて飼育されている兎だ。幸福そうな姿に見える。
不思議なのは、兎は目が赤いものだと思っていたが、この兎は目が赤くない。眼科校医の三井先生が兎の結膜炎を治したのだろうか?
2010年7月17日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第9話 緊急速報「危険 耳そうじ!」
この写真は、お母様がお子さんの耳垢をとろうとして、あやまって孔をあけてしまった血だらけの無残な鼓膜だ。私が昨日撮影した。この孔は、数ヶ月の治療でふさがると思うが、今年の夏の水遊びは禁止だ。明日から家族旅行なのに、このお子さんだけは、海に入れない。泣いていた。ご家庭での耳垢とりは危険だ。絶対にやめるべきだ。
耳垢が気になったら、矢野耳鼻科で危険なくおとりします。ご来院ください。
2010年7月24日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第10話「熱中症」
この夏の異常な暑さのため、本年7月の1カ月間で、病院に搬送された熱中症の患者さんは1464人。昨年の約4倍に達したと東京消防庁が発表している。
熱中症;私が慶応医学部で学んだ頃には、熱射病、日射病と教わり、熱中症という言葉を聞いた記憶はない。学生時代の受講禄を探し、やっと探し当てた医学部時代の古ぼけた講義ノートには下記のように記されていた。
★熱射病:溶鉱炉等の高温下で長時間労働をした時におこる。
★日射病:真夏の高温多湿時、頭部や項部に直射日光を長時間うけながら、労働、スポーツをした時におこる。
結局、熱中症という言葉は私のノートには見あたらなかった。1981年1月編集の南山堂の医学事典にも熱中症という項目はない。
更に調べたところ、熱射病も日射病も高温多湿のもとでおこり、そのメカニズム、症状、治療方法がまったく同じことから最近では熱中症として統一されたようだ。予防及び治療方法は、新聞、テレビで詳しく報道されているので省略する。
私は、「炎天下で学校運動部員が熱中症をおこした時はコーチの監督不行き届き」、「ゴルフ場等でゴルファーが倒れるのは自己責任」、「乳幼児の熱中症の予防は父母の保護責任」だと断じている。しかし、一人暮らしの高齢者が熱中症で亡くなったというニュースにはやりきれない思いがする。その予防は行政の責任と切って捨てて良いものだろうか。難しい問題だと思う。
尚、ペットにも熱中症が起こるという。
ジョークかも知れないが、気温50度に近いアフリカでは海水浴でヤケドをするとの事だ。
(暑がっている愛犬プリンについては、院長余話で後日詳しくふれる。)
2010年8月5日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第11話「急性中耳炎の治療方法:学者と第一線開業医の考え方の相違」
上の写真は当院のファイバースコープで撮影した正常な鼓膜と、急性化膿性中耳炎の鼓膜(あかちゃん)の写真だ。右の鼓膜は赤く腫れあがっていて見るからに痛そうだ。
中耳炎の治療方法には日本耳鼻科学会が、「小児急性中耳炎診療ガイドライン」を発表している。それによると、最初に使うべき抗生物質はペニシリン系の薬剤ということになっている。細菌検査の結果ではペニシリンは確かに有効だ。しかしペニシリンには大きな欠点がある。下痢の副作用が他の抗生物質に比べて圧倒的に多いということだ。
そこに、学問至上主義の医学者の考えと、第一線開業医である私の考えの間に大きな温度差がうまれる。下痢は赤ちゃん幼児にとっては深刻な副作用だ。保護者の方にとっても大きな心配となる。私は副作用の少ない抗生物質を最初に使用し、そして抗生物質の投与はできるだけ短期間で中止するように心がけている。以上が中耳炎に対する私の治療方針だ。
2010年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第12話「滲出性中耳炎の治療」
1.正常な鼓膜は真珠色に光っている。
2.滲出性中耳炎の鼓膜は、にごっていて、水平線の下に粘液が貯まっているのを観察できる。
3.鼓膜にイオン麻酔(鼓膜に麻酔液をたらす)をして、無痛下で鼓膜切開すると粘液がでてくる
4.写真3の粘液を吸引すると写真のようなきれいな鼓膜になる。この小さな孔は数日で自然にふさがる。すべて無痛でおこなうことができる。
以下、私が生涯忘れることできない嬉しい経験談をご紹介する。
長期間治療されずに放置されていた5才位の滲出性中耳炎のお子さんを初診時に鼓膜切開し粘液を排除した。
翌日、そのお母様が私の前で、涙を流していた。「どうしました?」と、いう私の問いに対するその方のお返事に感動した。
「矢野耳鼻科で鼓膜切開をしたその直後から、急に聞こえが良くなった。そのこと以上に私が嬉しいのは、今まで、この子は落ちつきがなく、親に対しては反抗的、理由なく妹をいじめることが多く、嫌な性格な子だと思っていたが、急に素直になり聞き分けがよくなった。それ迄よほど耳の不快感が強かったのだろう。それなのに治療せずに放置して、可哀想なことをしてしまった。本当は良い子だったのに。涙、涙!」。私も言葉がなかった。
滲出性中耳炎の不快感は強いのに、幼児はそれを言葉で表現することができないので、保護者の方が気をつけるより他ない。カゼをひいたら熱がなくても、痛がらなくても、耳鼻科専門医を受診して、鼓膜に病変があるかどうかを確認してもらうことが重要だ。
これから迎える秋から冬にかけては滲出性中耳炎がふえる季節だ。お母様方に充分に気をつけて頂きたい。
2010年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第13話「マリンスポーツ」
子どもの頃、鵠沼海岸に住んでいた私は、夏休み毎日のように海水浴を楽しんでいた。普通部(慶応の中学校)時代は水泳部に席をおいたほどの水泳好きだった。又、江ノ島、鵠沼海岸は青春を楽しんだと地でもある。当時の江ノ島には展望灯台はなかった。昭和26年に展望灯台が建設された時、江ノ島の自然美が失われるとの反対運動が起こったことを記憶している。
その頃は、スキューバーというスポーツは一般的ではなく、又、今のように冷たい冬の海で、サーフィンを楽しむ人もいなかった。
今、私が“その年頃”であったら、マリンスポーツにのめりこんでいたかもしれない。マリンスポーツを楽しむ事は結構だが、耳に悪影響をあたえることもある。マリンスポーツの愛好家で、耳に異変を感じたら直ぐに矢野耳鼻科を受診することをおすすめする。
上の写真には、スキューバーのさい、耳抜きに失敗したための鼓膜の孔が見える。スキューバーをしている時に、耳の痛み、耳がつまっているような感じがしたら、鼓膜の異常が疑われる。スキューバーを中止して、耳鼻科医の診察を受ける必要がある。
上の写真は、典型的なサーファーズイヤーで外耳道が腫れあがり、耳の孔がほとんどふさがっている。耳の孔が狭くなっているので、耳の中に入った水をとるのは危険なため、耳鼻科医の診察を受ける必要がある。
2010年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第14話「病気の説明はわかりやすくていねいに」
このことは、私が日常の診療で、もっとも重視していることだ。
その原点は、私が慶応大学耳鼻咽喉科医局から済生会宇都宮病院に赴任していた時にさかのぼる。医師になって2年目の若い時のことだ。入院中の患者さんに手術内容の説明を終えた時、思いもかけず婦長から、「今の難解な説明では、あの患者さんは何一つ理解できなかっただろう」、と指摘された。自信満々な医師への、経験豊かな婦長からの厳しいお灸だ。その時に受けたアドバイスが私の貴重な経験となり、今でも私の中で生き続けている。
現在の私は、患者さんの訴えには出来るだけ耳をかたむけ、患者さんが理解しやすいように、わかりやすく病気の説明をするように心がけている。
さらに最近では、医療用ファイバースコープ、ビデオカメラの進歩で、必要に応じて画像が出せるようになったため、患者さんへの説明が更に、わかりやすくなった。
しかし、第3話で述べたように、病気の説明は要領よく簡潔にしないと、待合室の患者さんの待ち時間をいたずらに長引かせる原因となる。
そこで私は、口答で説明した後、一般の方にも理解しやすい内容の「手作り説明書」を、患者さんに直接お渡しするようにしている。患者さん御自身が後でゆっくり説明書に目をとおして頂くことにより、病気へのご理解を深めていただけると期待している。又、御家族にも病気の内容を知っていただく事に役立つと思う。
「前もって、説明書をお読みいただき、ある程度の予備知識をお持ちのうえで、矢野耳鼻咽喉科を受診していただいたほうが、より有意義ではないか」、とのゆかり副院長、さゆり医師の進言をとりいれて、この度ホームページに説明書を全部公開することとした。
2010年12月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第15話「杉の子 何の子」
むかしむかしの そのむかし 椎の木林の すぐそばに 小さなお山があったとさ あったとさ
まんまる坊主の 禿げ山は いつでもみんなの 笑いもの
「こんなチビ助 何になる」びっくり仰天 杉の子は おもわず首を ひっこめた ひっこめた
ひこめながらも 考えた 「何の負けるか いまにみろ」
大きくなって 皆のため お役に立って みせまする みせまする
私と同世代、もしくは私より年上の方はこの歌を懐かしく思いだされる事だと思う。
第二次大戦中、数多くの日本人がこの歌を口ずさみながら、杉の子を植えた。
杉の大木を育てて杉山を作り、その杉材を利用する事が、日本の将来にとって有益であるという国の政策を信じていたからだ。
真実かどうかは定かではないが、「椎の木林はアメリカを、禿げ山は日本を意味している」、と小学生の頃に聞いたことがある。
そして終戦、当時の日本人の願いのように杉の子は大木に成長し、禿げ山は立派な杉山となり、大量の杉花粉を飛散するようになった。
杉花粉症の発生だ。日本の役にたてる目的で植えられた杉の子は、今や日本の全人口の20%をこえる人々を毎年悩ませる花粉症の元凶になったのだ。
なんとも皮肉な結果ではないか。
次月につづく
2011年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第16話「杉の子 悪魔の子」
戦中、戦後、国民が植えた杉の子は立派な杉山に成長し、国策が実現した。その杉山が日本人に恩恵を与えるどころか、多数の人を杉花粉症で悩ませる元凶になるとは誰も予測出来なかった。
現在の杉林は、戦前、戦後に植林されたものだ。戦後の復興期、優れた木材である杉の木が日本の経済発展に貢献したのは事実だ。しかし、その後の日本経済の成長、それにともなう円高のため、日本杉を使用するよりも安価な外国杉材を輸入でるようになった。その結果、杉林は枝おろしもされぬまま放置され、季節になれば無限に杉花粉を飛散するようになった。
最近、国は重い腰をあげ、東京都を先達として花粉の出来ない杉の新しい品種を開発し、それを挿し木して杉林を植え替えることにとりくみ始めたという。
しかし、林業における杉伐採の量、地球温暖化の影響を考えると、ゆるやかではあるが今後も杉花粉の飛散量は増え続けると予想している学者もいる。
40年後には杉花粉の飛散量は現在の1.7倍となり、杉花粉症で悩む人も1.4倍になるだろうとの試算もある。
そして、杉花粉はやっかいな事に風に乗って、300キロメートル以上の遠距離に飛んで行くことが知られている。杉林の近くに住む方のほうが、症状が強く出るのは当然だが、杉林が近くにない都会も安心できない。
私の記憶に強く残っているのは、花粉症の治療をしていたにも関わらず、仕事(森林業)で杉の枝おろしのために杉林に入りショック症状を起こした患者さんの話だ。こうなると“たかが杉花粉症”と、いえなくなる。
昔、国策にそって植えた“杉の子”は、実は“悪魔 の子”だったのだ。
2011年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第17話「学校保険医の表彰」
昨年11月、私は高木義明文部科学大臣より、「学校保健の普及・発展に尽力した」、とのことで平成22年度学校保健の表彰状を頂いた。
日本医師会会員数165、086人中・47人、神奈川県医師会会員数8、425人中・3人、藤沢市医師会会員491人中・2人(木庭等先生と私)、以上が今回表彰された会員の内訳だ。最初、私が思ったよりもはるかに価値のある表彰だったようだ。
藤沢医師会員491人の中から私が選ばれたことに不思議さを感じ、医師会に問いあわせたところ、長年地域医療に貢献した功績を認められたとのことだ。確かに私は、開業医及び学校医としての責任を果たしてきたつもりだ。当然の義務を遂行した。それ以上でもそれ以下でもない。
医師会関係者は「地域医療に貢献する」という言葉を好んで使う。しかし私はこの文言が好きではない。
「貢献しているか貢献していないか」という表現は他者がその人を評価する場合初めて力を持つが、自分が自分についてこう言っても、全く無力だと思う。
思い返してみれば、私は善行で開業して以来40年以上の長きにわたって、学校医を努めて来た。多い時は、善行小学校、大越小学校、六会小学校、俣野小学校、小糸小学校、湘南台小学校、善行中学、六会中学の8校の耳鼻科検診を一人で受け持ったこともある。当時は、各学校共に今よりはるかに生徒数が多く、入学時検診、プール前検診を一人で行うのは、時間的にも体力的にも大変なことだった。しかし当時は藤沢市内に耳鼻科医が少なく、校医部会の義務を果たすためには仕方ないことだった。
自分の受け持ちの学校の状況を知るために、検診とは無関係の時に、学校の周辺を散策したり、校長先生、養護の先生にお会いし懇談したこともある。月日が流れ、その先生方も定年退職なさった方が多く寂しいかぎりだ。
入学時検診の時、乳幼児期に難治性中耳炎を私が治療していた新入学児の鼓膜が完治しているのを診て、付き添いの保護者の方にその事を報告し、二人で喜びを分かちあえる時、学校医としての最高の喜びを感じた。
今回の学校医の表彰に私が選ばれた事は身に余る光栄だ。しかしその表彰式は、昨年の11月19日(金曜日)群馬県でおこなわれた。残念ながら私は欠席した。金曜日に私は診療を休むことはできない。
地域医療に貢献するために!
2011年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第18話「新入学の皆様おめでとうございます」
大雪にもめげず共通一次にパスし、晴れて志望校へ入学なさった新入学の方々には、祝福と同時にその頑張りに心からの敬意を払いたい。
しかし、医師の立場から私は、共通一次それに続く入学試験が、1月から2月にかけて行われることに以前から疑問を感じていた。1月~2月は積雪の怖れ、インフルエンザの流行、そして杉花粉症の季節でもある。
受験生自身にはどうすることもできない外的因子が加わるこのシーズンに、人生の進路にとって重大な共通一次・入学試験を行うのは公平とはいえない。
春入学を秋入学に変更すれば解決することではなかろうか。欧米では常識だ。又、私が述べた理由とは違う様だが、東京大学は秋入学を検討していると仄聞する。移行期におこる混乱は覚悟の上で改革するべきだと思う。
桜の花の舞い散る中での入学式を日本の伝統だと固守する考えもあるが、夏には“ひまわり”が咲く。そのひまわりの種を、将来の日本をになう若者におきかえて考えたら如何だろうか。
共通一次を受ける学生のために、懸命に雪かきをしている人々の姿をテレビでみて、関係者の方々のご苦労にも感銘を受けた。
降雪は医学の問題ではないが、インフルエンザ、杉花粉症は私の専門分野だ。ただでさえ、受験生は睡眠不足になりがちだ。睡眠不足によっておこる体力低下は、当然インフルエンザウイルスの感染を起こしやすくなる。インフルエンザに罹患したら、受験どころではなくなる。
杉花粉症は注意力散漫の原因になり、又、杉花粉症の内服薬は眠気をもようす事がある。受験生にとって、大きなマイナス因子になる事は必然だ。
前にも述べたと思うが、私のクリニックではどんなに混んでいる時でも、他の患者さんには申し訳ないが、受験生は直ぐに診察するようにしている。受験をひかえた若者の貴重な時間を大切にしたいと思
うからだ。
いずれにしても、降雪、インフルエンザ、杉花粉症は受験生の三重苦といえるだろう。
この原稿を書いている今日(1月31日)も、入学志望校の面接予定を明日にひかえた女子生徒が、高熱で来院した。検査の結果インフルエンザ陽性。明日の面接はあきらめねばならない。まさに悲劇だ。
降雪、インフルエンザ、杉花粉症は受験生にとって、まさに三重苦だ。
2011年1月31日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第19話 「こどもの危険」
5月5日はこどもの日の祝日です。
国民の祝日に関する法律によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としているという。父親には感謝しなくて良いのだろうか。私は不満だ。
今回は、こどもの日にちなんで、耳鼻咽喉科医の目からみた“こどもの危険な行為”について日頃から感じている事を述べる。
こどもとは、0才から15才迄と定義されているが、私が今回とりあげるのは、おもに乳幼児の事故防止についてだ。
以下、“こどもさん”という言葉はわずらわしいので“子ども”と表現しますので御了承頂きたい。
私は子どもが危ないことをしていると気になって仕方がない。電車の中でお母様が我が子の危険な行為に無関心でいるのを見て、思わず注意したこともある。特に、自分のクリニックで内では、乳幼児の危険を予防するために強く保護者の方に注意するようにしている。
さて、私が気になる子どもの危険な行為について書き記す。
耳鼻科咽喉科の診察中に泣きながら口の中にアメ玉を入れている子どもがいる。誤って気管に吸い込んだら大変だ。某大学病院耳鼻咽喉科で耳の診察中に幼児が突然死したことがある。死因を究明するために行われた解剖の結果はアメ玉が気道につかえたための窒息死だった。医療訴訟にはならなかったものの、アメ玉が口にはいっていることに気づかなかった医師が注意義務違反をとわれ、訓戒処分を受けた。しかし、私は保護者の方にも責任があると思う。どちらが悪いにしろ、とりかえしのつかない不幸な出来事だ。
幼児がチューインガムをかみながら転んで、気道をふさいで窒息した話もある。チューインガムをかんだままラクビーをしていた選手が、タックルをされた瞬間に窒息した事件は有名な実例だ。
大体、スポーツ選手が試合中にガムをかんでいること自体が見よいものではない。幼児にチュウインガムをかませる事はもっての他だ。
耳鼻咽喉科医には常識でも、一般の方があまりご存じないのが、ピーナツは危険な食べ物と言うことだ。幼児がピーナツを食べそこなって、気管から肺に吸いこむと悪性の肺炎をおこして死亡することがある。私は自分の子どもが幼い頃にはピーナツを絶対に自宅には置かないようにしていた。
尚、幼児が煙草を食べようとした所を父親が気づき、あわてて取りあげたために大事にはいたらなかった事例もある。本当に食べてしまったら受動喫煙の害どころではない。子どもは何をするか分からない。日頃から危険な物を子どもの手がとどく所に置かないように気をつけることが必要だ。
次号に続く。
2011年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第20話「こどもの危険 続」
小さい物、とがった物は幼児の手のとどく所においてはいけない。
たとえば、幼児の衣服に小さな安全ピンをつけるのは危険だ。
幼児が自分で安全ピンをはずして、開いたまま口の中に入れてのみこむ事がある。多くの場合、開かれた安全ピンは針先を上にして、食道に刺さっているので、除去するのには全身麻酔をかけなければならない。
髪をヘアピンでとめる場合も、大きなヘアピンを使用して頂きたい。おとな用の小さなヘアピンは飲みこまれる危険がある。
スプーン、ボールペン、おもちゃのとがった部品等を持ちながら、ヨチヨチ歩いている幼児を見ると、ころんで目にでも突きさしたらと思うと、「危ない!」、と叫んでしまいたくなる。
「ワリバシ事件」は記憶に新しい有名な出来事だ。ワリバシを持ちながら転んで、口の中に突きさした子どもを診察した某大学病院の耳鼻科咽喉科医が、口の中はケガのみでハシはささっていないと思い、そのまま経過をみていた。ところが、折れたワリバシの一部分のみが、頭蓋内迄つきささっていたために死亡した不幸な事件だ。残念だったのは付きそっていた保護者が、折れたワリバシの残りを手に持ちながら、ワリバシが折れているのを担当医に告げなかったことだ。ワリバシは「長い物」、と思い込んでいた医師は、医療裁判にかけられ処罰された。
折れたワリバシの短い先端部のみが突きささっていた事を想像できなかった医師、折れたワリバシを持ちながら担当医に告げなかった保護者の両者に私は責任があるような気がする。
幼児は小さな物を、耳の孔や鼻の中に入れる事がある。
例えば、ビーズ玉、おもちゃの部品、テイッシュペーパー等々。
この様ないたずらをするのは、ほとんどが2才前後の乳幼児だ。その頃になると指先が器用に動くようになるからだろう。
魚を幼児に食べさせる時は、保護者の方は小骨に細心の注意をはらって頂きたい。幼児はおとなしく口を開けないので、のどにささった小骨をとるのは大変だ。特にウナギの骨がのどに刺さると、細くて小さく見えにくいので除去するのに難渋する。
笑い話のような事だが、家人が帰宅したら幼児が部屋に転がっていたので、あわてて駆け寄った。酒臭かったために周囲を見回すと、日本酒のトックリが転がっているのを発見した。幼児が酒をのんだための急性アルコール中毒だ。
幼児は何をするかわからない。子育てには細心の注意が必要だ。
子ども 15才以下 1694万人 平成22.4.1日 現在
2011年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第21話「医師としての第一歩」
1959年7月1日は、私にとって生涯忘れるこの出来ない貴重な経験をした日だ。そして悲しい日でもあった。
その日、私の父は脳梗塞のため59才で亡くなった。私がインターン生として、慶応病院の外科に配属されていた時のことだ。医師国家試験を受ける前なので、未だ医師免許は取得していない。
当時、私達は横浜の山手に住んでいた。
脳梗塞による半身不随で自宅に寝たきりになっていた父は、亡くなる三日ほど前から容体が悪化し、警友病院(けいゆう病院の前身)の山岡三郎内科部長(慶応の大先輩)に往診をして頂いていた。山岡先生から父の命が長くない事を告げられ、父が急変した時の内科的処置の指示を受け、一時も父から目を離すことのない様に注意された。しかし私は大切な外科学のインターン中の身だ。慶応病院を休むことは出来ないと山岡先生に話したところ、「自分の父親の臨終にも立ち会わないで、何が外科のインターンだ!自分が慶応の外科に話をつけてやる」、と強く叱られた。そこで私は気をとりなおし、自分で外科のインターンの指導者中村先生に電話で事情を告げ、正式な許可を得て父の病床に付き添った。
7月1日未明、いよいよ父の最後が来たことは、インターン生でしかない私にもわかった。山岡先生に連絡する間もなく、枕元に用意してあった注射薬を注射し、最後には心臓内注射まで行なった。父の瞳孔がすでに開いている事を確かめ、「ご臨終です」、と比較的冷静に、母、姉達に告げたのは午前4時31分のことだ。私はその時間まではっきりと覚えている。
父がその2年前に最初の脳梗塞の発作でたおれた時の主治医は、当時の“内科学の神”とうたわれた坂口康蔵国立第一病院院長だった。最後の発作で半身不随になってからは、私の大先輩である山岡三郎先生の治療をうけ、そしてかんじんな最後の時はインターン生でしかない息子一人に最後の治療を託したわけだ。
私は、父から“死の尊厳”を学び、父も満足しながら息をひきとったと思う。
朝早く駆けつけて下さった山岡先生は私の冷静な対応をほめ、立派な医師になれだろうと激励してくださった。
尚、山岡先生がご要望なさった父の病理解剖を、何のためらいもなく受け入れた母もその時代の人としては立派だったと思う。
そして、警友病院で行われた病理解剖の助手を私の親友である同級生が務めたのも何かの因縁だろうか。
外科学のインターン実習よりも父の臨終に立ち会う事の大切さを教えて下った山岡先生、それを快く承諾して下さった慶応病院外科学の中村先生、本当に良い先輩、心ある指導者に私は恵まれていたと思う。
その後の私の医師としての長い人生も、数えきれない程多い方々の恩恵を受けている。そのことについては、院長余話でおいおいと触れるつもりだ。
1943年 42才の父。父の左手の下に米軍機の爆撃から家族を守るために造ったシェルターの入り口が見える。
2011年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第22話「不思議な話」
前回は父の臨終という重い話題を取り上げたので、今回は軽い話題を取り上げる。
私が専攻している医学は自然科学に属する。自然科学は論理的に説明出来ないことを否定することから始まり、又、事柄の変化を理屈で考えるのが原則だ。
医師である私は、当然の事として科学的に説明出来ない超能力的な現象、理屈にあわない事象は反射的に疑ってしまう。
しかし、趣味として私はマジックを見るのが大好きだ。どんなに超能力的に見えるマジックにもトリックが隠されている事は当然だろう。
只、テレビのマジックショーには、テレビカメラのトリックがかくされているかもしれない。カメラのトリックが介在しているとしたら、興味は半減する。ナマで見なければマジックの醍醐味は分からないと思う。
数年ほど前、私は家族6人でMr.マリックの超魔術ディナーショーを楽しんで来た。ディナーの後、Mr.マリックからのプレゼントとして各自にスプーンがくばられた。
いよいよ、マジック界の大御所Mr.マリックの舞台登場。簡単なカードマジックの後、お目当てのスプーン曲げの始まり。Mr.マリックの指示にしたがいながら、片手にスプーンの柄を持ち、3回ほどスプーン曲げの予行練習。
いよいよ本番、会場の照明が不思議な色彩の閃光に変化、地獄から聞こえるような不気味な音楽が鳴り響き、Mr.マリックの異様な大声につられて、スプーンの頭に人差し指をかけ手前に引くと、不思議な事になんの抵抗もなく、私が手にしたスプーンがクニャリと曲がった。しかし、家族は誰もスプーンを曲げる事が出来なかった。正確な人数はわからないが、100人ほどの観衆の半数位のスプーンが曲がったようだ。
前もって曲がるような仕掛けがあったスプーンがまぜられていたと考えるのが自然だと思う。しかし、家に持ち帰ったスプーンはいくら力を入れても元には戻らない。6人家族の中で私だけMr.マリックの超能力にかけられたのだろうか?
私は、今でも釈然としない。
私が慶応幼稚舎(慶応の小学校)の2年生の時、浜田山(東京杉並区)に遠足に行った時にも不思議な事がおこった。距離、高さは不明だが、空中を真っ赤な火の玉が、ゆっくりと左から右の方向に飛んで行った。担任の先生、クラスの過半数が目撃した。担任の先生も何だかわからなかったようだ。
私の妻も20年ほど前、権太坂(保土ヶ谷)の崖の上から、はっきりと同じ様な火の玉を目撃したと言っている。
火の玉は日本人の40人に1人の割合で、目撃者がいるとの事だが、文献によると、“火の玉=人魂”というのは間違っていて、火の玉はある種の放電現象による発光だとの事だ。
更に昔、我が家でおこった不思議な話をご紹介する。亡くなった母が生前にくり返し語ったことだが、母の義理の姉が亡くなった午前4時に、セットしていなかった目覚まし時計が鳴ったと母が言い張る。「親の言う事は何でも信用するものだ。決して口答えをしてはいけない。」、と教育されていた私は、「目覚まし時計の故障?お母様の誤った思い込み?」、と母に疑問符を投げかける事はできなかった。今となっては、亡き母に問いただす事もできない。
私には、全てのことを反射的に疑って考える習性があるが、このことだけは母の言葉を信ずる事にして、深く詮索することはせず、矢野家の不思議な話として伝承する事とした。
親を疑う事、即ち親不孝
2011年8月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第23話「診療所の防犯」
つい最近の事、6月10日(木)の17時半頃、私の診療所と目と鼻の先にある善行郵便局に刃物を持った強盗が入り、6万5千円の現金を奪い逃走した。幸いけが人はなかったという。 そこで、私は自分の診療所の防犯対策について再考した。
診療所には、受付時間中ならいつでも不特定多数の人(患者さんでなくても)が自由に出入り出来る。“待合室は外”、という概念がその根底にある。考えてみると物騒な事だ。
当院では、以前は平日朝6時に表ドアーを開け受付に用意してあるノートに患者さんご自身或いは代理の方が、お名前を書き順番をとるシステムであった。患者さんにとって簡単なこの方法にも大きな欠点があった。例え、待合室の中ドアーに錠前がしてあっても、スタッフが出勤する前の早朝の待合室は無人となる。中ドアーの鍵さえ壊せば、泥棒は簡単に診察室に侵入する事が出来る。この危険性を交番のお巡りさんに指摘された。そのため、新しく開発された医院用の予約電話システムを導入した。非常に便利となり患者さんからも大好評であった。そして、スタッフが出勤してから表ドアーを開けるようにしたので、コソ泥の進入を防ぐ事も可能になった。 しかし、この方法だけでは、郵便局に押し入ったような強盗を防ぐことは出来ない。
院長である私には、患者さんは勿論の事、スタッフの身を守る義務がある。私は、常々スタッフに、「もし、強盗が入ったら自分の体をはって強盗と差し違え、患者さんとスタッフの身を守る」、と言っているが、スタッフからは院長が一番先に逃げるのではないかと、一笑にふされている。
そこで私は、数年前にコソ泥の進入を予防するために、全館の窓に非常ベルをつけ、警備保障会社と緊急連絡網をひいた。 次に更なる抑止力としてクリニックの周りに、数台の防犯カメラを設置した。二階にあるモニターテレビで、防犯カメラの映像はいつでも再生できるようになっている。
然し、実際に録画を再生する必要があったのは一回しかない。それも当院とは直接関係ない事である。クリニックの直ぐ下の坂でひき逃げ事件があった。その該当車が当院の前を通過した瞬間を見せて欲しいという警察の要請があった時だけだ。そのひき逃げ犯は逮捕された。当院の防犯カメラが社会のお役にたてて何よりの事だと思う。
然し、診療所に防犯カメラをセットするという事は、患者さんのプライバシーの侵害にあたり、患者さんが不愉快に感じるのではないか、という考えもある。
誰もいない時に、診療所に泥棒が入っても金目の物は置いていないから怖くはないのだが、診療所には大事な“カルテ”が保存してある。カルテは患者さんの個人情報そのものだ。現実に私の知人の医院(藤沢ではない)に泥棒が入り、めぼしい物が無かったために、腹いせにカルテがメチャクチャにされたという事件があった。泥棒は一文の得もせず、院長の責任のみ大である。
患者さんからお預かりしているカルテ、保険証の安全な保存のためには、防犯ベル、防犯カメラの設置は、診療所の外部、内部を守るために不可欠と考える。警備保障会社との緊急連絡システム、不法侵入者の映像を警察に直ぐに届けられる当院の防犯設備は完璧であると自負している。
2011年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第24話「悲しい別離の表情」
私は長い生涯の間で3回犬を飼った。3匹といわずに3回と書いたのは現在、我が家にいる犬は4匹だからだ。この4匹についてはいずれこの余話で書くつもりだ。
今、書こうとしているのは私が普通部(慶応の中学校)1年生から医師になった1年目までの13年間、我が家にいたポインターの雑種のことだ。名前はチョコという。
鵠沼海岸時代
今と違い終戦後間もない1948年頃は、人間の食料も不十分で犬を飼う人はまれだった。当時、鵠沼海岸に住んでいた私は、どうしても犬が欲しくて両親を説き伏せ、大磯に住んでいた慶応の先輩の樺山家から子犬をもらってきた。樺山家というのは、日清戦争の時の功績で伯爵の称号を受けたほどの名家だ。その家で生まれたチョコは、世が世であれば小市民である私など近づく事も出来ない高貴な出自の犬だ。
父母をはじめ家族全員でチョコを可愛がった。家の中で飼い、食事も人間と同じ、と言ってもさつまいもとかぼちゃがご馳走の時代だ。体を洗うのも週1回がやっと、それも貴重な洗濯石鹸を使い、たらいの中で体を洗った。チョコはその時代にふさわしく飼い主の私に従順だった。私も心底からチョコを愛した。
そのチョコが一度、失明の怖れがある重症の急性結膜炎になった。驚いた私は、なけなしのお小遣いでペニシリンの点眼薬を買い、点眼した。嘘のような話だが一回目薬をさしただけで、両眼ともにきれいになった。今と違いペニシリン耐性菌がいなかった時代なのだろう。
横浜山手時代
私が慶応高校2年の時に我が家は横浜の山手に転居した。勿論チョコも一緒だ。今のように予防注射のなかった時代、ヤブ蚊の多い山手に居を移したのが悪かったのだろう。可愛そうにチョコは直ぐにフィラリアにかかり、腹水がたまって歩くのが苦しくたった。
私が慶応医学部4年生位の時のことだ。医学生だった私は、患者さんの腹水をとる特殊な太い注射器で、チョコのお腹に針を刺して腹水をとった。さぞ痛かったろう。しかし、チョコはじっと我慢し、お腹がペチャンコになると元気を回復し、嬉しそうな顔をして走り回るようになった。しかし徐々にではあるが、腹水のたまり方がひどくなり、針を刺す間隔が短くなってきた。医学部を卒業してインターンになった私には、チョコの病状が進んでいる事がわかった。
その頃の医師は1~2年大学病院で研鑽すると、地方の病院に出張する義務がある。チョコを連れて地方には行けない。私がいなければ誰がチョコの腹水をとるのだ。私は悩んだ。悩みぬいているある晩、珍しくチョコが粗相をした。私はしつけのためにチョコをしかった。その時チョコは、私の顔を見て、“そんなに怒らないで”と、哀願する様に私をみつめた。その夜チョコは私のベット脇の自分のハウスで静かに息をひきとった。私の義務出張が決まる半年ほど前のことだ。チョコは全てを悟っていたのだろうか。
最後のチョコの“悲しそうな別離の表情”、私は生涯忘れることはできない。
2011年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第25話「二代目チョコ」
犬種はウエストハイランドホワイトテリア・通称ウエスティー。東京の青山ケンネルで求めた。ルックスは最高の雌犬だ。初代チョコにあやかるように同じ名前をつけた。
ゆかり副院長が高校3年生、次女さゆり医師が小学生の時にチョコは我が家の一員となった。
その頃から医学部進学を希望していた娘二人は学業に忙しく、チョコを可愛がってはいたが、かまう時間はあまりなかった。
私の母は高齢のため犬の世話をやくことはできない。
当時の私は診療、家族への義務遂行に心血をそそがねばならぬ時期で、可愛いとは思っても私の守備範囲内にチョコを入れる余裕はなかった。
妻が必然的にチョコの面倒をみる事になったが、その妻も常に娘達の事を考えていたのであろう。
ともかく、当時の我が家は犬べったりのゆとりある雰囲気ではなかった。
そのため二代目チョコは、初代チョコ、今いるワンコ達のように太い絆で家族と結ばれることはなかった。
チョコは約10年間生きた。可愛いヤンチャな犬だったが、最後の頃は反抗的になっていた。死因となった乳癌のため苦しかったのかも知れない。
珍しく家族4人がそろっている時に、皆が見守る中で最後を迎えたのがせめてもの慰めであった。
60年前に飼っていた初代チョコについては、忘れられない楽しく哀しい思い出が多数、脳裏に焼き付いているのに、二代目のチョコの記憶については殆どないのに等しい。家族にその話をすると皆で私の事を非難し、チョコは本当に可愛そうだったと涙をうかべる。私も可愛そうな事をしたとつくづく思う。
チョコの事で私は大きな教訓を得た。動物を飼うのには、時間的、精神的に余裕がある事が絶対条件だ。身の丈にあった生活をしなければいけない。
今我が家にいるワンコ達のことについては、余話でいずれ書くつもりだ。二代目チョコに詫びつつ。
2011年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第26話「中耳炎の診断」
いよいよ冬の到来です。冬はカゼが流行する季節、中耳炎の患者さんが多発するシーズンでもあります。
中耳炎はご存じのように乳幼児に多い病気です。私自身も幼児期に中耳炎をくり返した嫌な記憶があります。
いうまでもなく、中耳炎の診断・治療は先ず鼓膜の所見を正確に把握する事からはじまります。
耳鼻咽喉科専門医として、私は乳幼児の鼓膜を診ることにかけては誰にも負けない自信があります。「鼓膜を診る技術」とは、即ち中耳炎を診断する技術です。
私は患者さんを診る時に、旧式な額帯鏡を使用せず、高性能の拡大レンズをつけたファイバースコープ(クリニカライト)で鼓膜を詳細に観察いたします。額帯鏡のかぼそい光と違い、拡大レンズをつけたクリニカライトを使用すれば、鼓膜を鮮明に照らすことができます。さらに必要な時は、硬性鼓膜鏡、診察台に取り付けてあるマイクロスコープ(診察用の顕微鏡)を使用することもあります。それでも微細な鼓膜の変化は読みきれない時は、ティンパノメトリーという機械で鼓膜の変化をグラフにして確認いたします。
ティンパノメトリ-は数秒で終わる簡単な検査ですが、鼓膜の病的所見を診断する精度は高く、高性能のレーダー探知機の役を果たします。
院長余話では医学の専門的なことは書かないようにしているのですが、ここにきて耳鼻科専門医としてのプロ意識が芽生えたようです。実際に診察時に鼓膜鏡で撮影した鼓膜の写真とティンパノグラムを記載いたします。
乳幼児の診察の好きなゆかり副院長、さゆり医師も鼓膜を診る技術は優れています。最近では私以上かもしれません。
乳幼児の中耳炎の患者さんは地元の開業医の診療を受ける事が多いため、私が慶応大学病院及びその関連大病院で診療に従事している時には、乳幼児の中耳炎の鼓膜を診察する機会には恵まれませんでした。
そのため、私は独立し開業する決心をした後、慶應義塾大学病院を退職して、慶応系の有名な開業医の病院で、数年間、乳幼児の鼓膜を診る修行をいたしました。その頃の経験が、今の私の診断技術の源になっているのだと思います。
又、私は子どもさんが好きです。赤ちゃんの泣き声も気になりません。いくら泣き叫ばれても、乳幼児の中耳炎が治ったことを確認し、ご両親にそれを告げる時は何にも優る嬉しさを感じます。中耳炎が治りにくい時のご両親の困惑は私の困惑でもあり、治った時のご両親の喜びは私の喜びでもあります。
自分の得意な専門分野で、社会に貢献しているという“自信と実感”を持てることは何にも優る私の喜びです。
2011年12月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第27話「坂の上のクリニック」
私は1959年に慶応義塾大学医学部を卒業後、慶応病院及びその関連病院で研究及び診療に従事しながら、医学博士号を収得した。慶應義塾大学病院を退職した後、慶応系の有名な開業医の病院で、“開業医としての医療”のあり方を学んだ。
開業医として独立する自信を得た私は、1969年秋に藤沢市善行稲荷神社の前で“矢野耳鼻咽喉科医院”を開設した。
開業に際しての全てのアドバイスは、私の実姉(鵠沼海岸の疋田眼科の院長)から受けた。この姉には今でも感謝の念を忘れてはいない。
その頃の善行は今と違い、田舎町で人口も少なく2700戸の善行団地以外、周辺の農家と善行台にまばらに家があるだけだった。
藤沢市内で開業している耳鼻咽喉科医の数も少なく僅か7人(今は20人以上)にすぎず、藤沢駅周辺から長後駅迄の耳鼻咽喉科診療所は私のところのみだった。勿論、藤沢市民病院も設立される前の話だ。
そのため、開業直後から来院患者さんの数が多く、待合室に入りきれない子供の患者さんが、善行稲荷神社の境内で遊び回り、町内の人からで注意された事も再三あった。
歳月が流れ、長女が大学病院での修行を終わり、耳鼻咽喉科専門医の認定をうけ、私と共に診療をすることになった。ゆかり副院長の誕生だ。次女さゆりも大学病院で耳鼻科咽喉科の修行を始め、ゆくゆくは3人で診療をする計画をたてた。そのため、善行駅の近くにクリニックを移転する事を考え、1998年に今の所に移転した。旧診療所では私一人で28年間診療したことになる。
新診療所の医療器具はすべて新品を購入して、それまで使用していた医療器具は旧診療所に全て残してきたので、引っ越しは比較的簡単だったと記憶している。
12年前、診療所の移転があらかた終わった日の朝、最後の準備のため自宅から新診療所に徒歩で向かっている時、善行郵便局交差点から急坂の上にある新診療所を見上げると、空にはどんよりとした雲があった。そして最後の点検のためにその日の夕方、再度新診療所に向かいながら、空を見上げると綺麗な虹が空を飾っていた。
その時、私は新診療所を“坂の上のクリニック”と名付けた。私が大好きな作家司馬遼太郎氏の代表作“坂の上の雲”からヒントを得たことは言うまでもない。
最初の診療所を開院してから、現在までの長い42年間の歳月を耳鼻咽喉科診療一筋に打ち込んでいる私の生き方は価値あることだと自分なりに満足しているのだが、それは甘い考えだろうか。
今日も私は、開業医の責務を果たすべく“坂の上のクリニック”に向かう。
2012年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第28話「杉花粉症のレーザー治療」
今や、国民病になっている杉花粉症の治療には、おもに薬物療法(内服薬・鼻内噴霧薬(フンムヤク)・点眼薬)が行われていますが、症状の強い患者さんには必ずしも満足な効果がえられるとは限りません。そのため、薬物療法にかわる治療として二つの治療方法が考案されました。
一番簡単な方法は、50%のトリクロール酢酸という薬を花粉症の始まる一ヶ月程前に鼻の粘膜に塗る方法です。5分もかからない簡単な治療ですが、しばらくの間、薬がしみて鼻が痛いということが大きな欠点です。又、薬の刺激で数週間鼻の下がただれることがあります。そして効果は一年ほどで、杉花粉症の予防には毎年行わなければなりません。数年程前までは当院でも盛んに行っていました。
然し、最近ではレーザー治療がこれにとって代わりました。医学の大進歩です。当院では最新式のレーザー機器を備え、レーザーの専門医を招聘して花粉症の予防防治療に力を入れています。
トリクロール酢酸塗布よりも、効果が長く続き無痛であることがはるかに優れています。特に鼻の病的アレルギ性変化が写真のように明らかに改善します。
然し、当院で杉花粉が飛散する前に予防的にレーザー治療を行える患者さんの数には限りがあり、レーザー治療をご希望の患者さん全員に施行できないのが残念です。なるべく早い時期に一度診察をして予約して頂く事が必要です。杉花粉症に苦しむ受験性、妊娠している方(内服薬に制限があるので)を優先して行いたいと思っています。
花粉症のレーザー治療につきましては、トップ頁の鼻の病気の所に記載されています「杉花粉症のレーザー治療」・「レーザー治療を受けられた方へ」をご参照下さい。
尚、花粉症にはレーザー治療・薬剤の併用がより効果的なこともあります。
鼻内噴霧薬、点眼薬、内服薬をご紹介します。
使用するには医師の処方箋が必要です。
副腎皮質ホルモンの注射は危険です。絶対におやめ下さい。
2012年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第29話 「当院のインフルエンザ対策」
今年は2月に入ってからインフルエザが猛威をふるっている。2月中はA型、3月に入るとB型が流行するという。
インフルエンザの予防・治療については毎日のように新聞、テレビで詳しく報道されているので、ここでは簡単に触れる。
予防のためには絶対に予防接種を受けることが重要だ。「予防接種を受けていればインフルエンザにかからない」、というのは大きな誤解だ。然し予防接種を受けていれば、例え、インフルエンザにかかっても軽症ですむというのは事実だ。この事を担当医は患者さんに詳しく説明する義務があると思う。故に、受験生、高齢者、赤ちゃんのいる家庭では家族全員が予防接種を受けることが必要だ。今年予防接種を受けなかった方は、来年からは是非実行して頂きたい。
マスクの着用、手洗い、うがい、可能な限り人混みを避ける事等は巷間いわれているとおりだ。
当院は、耳鼻咽喉科が専門なので、内科、小児科よりもインフルエンザの患者さんは少ない。それでも、“疑い”を含めると毎日5~6人くらいのインフルエンザの検査を施行する。
ただでさえ杉花粉症の患者さんで混雑するこの時期に、インフルエンザの患者さんを隔離診察するのは、院長として頭の痛いところだ。
ヒポクラテスの誓い(後記)のもとに、院長、副院長は医師としての使命感故に、感染症の患者さんに接することに何のためらいもない。然し、当院で仕事をしているスタッフ達には感染させたくない。スタッフ達を守るのも院長の重大な責務だ。どこかの匡の豪華船の船長のように院長、副院長は逃亡することを許されない。
そこで、発熱の患者さんには、あらかじめ電話連絡の上、裏玄関から入って頂き、二階にある二つの小部屋で院長、副院長のみが患者さんに接触するように心がけている。検査、処方箋、領収書、おつり等の受け渡しもスタッフ達を遠ざけて実行している。
今現在、心にかかってるインフルエンザの患者さんが二人いる。
一人は、5日後に国立大学の受験をひかえた男子、彼が無事に受験を受けられる事を心から祈る。
もう一人は、当日、長野県に転居する2才の幼女。引っ越しの予定が早朝であったために、診療時間前にインフルエンザテスト施行したところ、A型陽性で高熱あり。私は2~3日引っ越しの延期を進言したが、両親の都合で引っ越しを強行した。抗ウイルス剤の効果を信じるのみだ。
医師としての義務をまっとうしたといっても、一人間としての私の心は安らかでない。
後記 我々は医師免許証を授与される時、ヒポクラテスの誓いを復唱いたします。
ヒポクラテスの誓いとは下記の如しです。
2012年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第30話「母の生涯」
私が愛読している曾野綾子氏はそのエッセイの中で、「自分は親しくお付きあいした友人が亡くなっても、追悼文というものは絶対に書かない」、と語っている。その理由として、生前その友人が心の中で何を考えていたかなど、他人に正確に分かるはずはない。人は自分の事さえ正確に理解していないかも知れないときってすて、分からぬままに追悼文を書くなど故人に失礼極まりないと述べている。
私は今回の余話で、17年前に亡くなった母のことを書こうとしているが追悼文ではない。母の生涯を時系列的に述べ、特に医師として母の臨終の場面に主眼を当てて書きたいと思っている。
私の母は横浜一般病院の医師の娘として、1903年に生まれた。横浜一般病院は横浜の山手に1843年(文久三年)、外人(その頃は異人といった)の患者さんを主に診察する目的で創立された病院である。小児期の母の友達は外人が多かったと聞いている。母の父親は関東大震災の時に、患家への往診中に馬車の中で圧死した。
その後母は生糸貿易業の父と結婚、6人の子供をもうけた。女子五人、男子一人、その男子が私だ。
関東大地震、太平洋戦争、戦後の物資食料不足に悩まされ、6人の子供を育てるのにかなり苦労をした。
夫(私の父)を55才の時に亡くしたが、子供達も無事に成長し、母の希望通り私も医師になった。長女は眼科医となり鵠沼海岸で
疋田眼科の院長であり今も診療している。
私が1962年に結婚し、1969年に開業してからは長男である私と共に暮らした。私の妻とも折り合いが良く、二人の孫娘、ゆかりと、さゆりを心から愛してくれた。孫二人も普通以上になついていた。
60才過ぎてからは、木彫りと皮彫刻の趣味の世界に没頭していた。特に木彫りの腕は玄人はだしと評価されていた。
平和な生活にも歳月は静かに流れる。88才になっていた母は木彫りの個展を開いた。母の生涯に与えられたささやかな勲章であったかもしれない。
その後も趣味の生活に没頭していたが、90才を過ぎる頃からさすがに老いが目立つようになった。
1995年4月22日(土)に顔色が悪い事に気づいた妻からクリニックにいた私に連絡が来た。
日頃から親しくお付き合いしている斉藤信義先生(湘南斉藤クリニックの院長)が直ぐに往診してくださった。斉藤院長のご厚意で個室に即刻入院した。
長女ゆかり(現副院長)は当時大学病院の医局員、次女さゆりは医師国家試験に合格直後だった。二人とも湘南斉藤クリニック(石上)に駆けつけて来た。誰の目にも母の寿命が一両日にせまっている事は明らかだった。私も含め3人の医師が母の病床に付き添ったことになる。「この病室をお貸しするから自由にお使い下さって構いません。必要な時はいつでもお呼び下さい。ご家族だけで看取られるのがお母様も一番幸福でしょう。」大病院では考えられない斉藤先生のご厚意ある暖かい言葉だ。
母の右手に長女ゆかり、左手に次女さゆりが付き添い点滴、酸素等最後の努力を懸命にしていた。私は一歩離れてその光景を見ながら不思議な感慨にふけっていた。もう私の出る幕ではない。二人の娘にまかせよう。余話21回に書いたように、37年前の父の臨終の時はインターン生でしかない私が一人で父を看取った。母の場合は立派に育った医師が二人も両側についている。
私の姉達も集まり部屋は満員になって来た。意識が薄れかけていた母がはっきりと言った。「皆集まっているなら、ちょうど良いから、三笠会館にでも行って食事をしたら良いのに。」これが母の最後の言葉になった。何と母らしい言葉だろう。その時私は嗚咽した事を覚えている。
土曜日の夕方入院した母は苦しむこともなく眠るように月曜日の未明息をひきとった。
享年92才、母の臨終は良い子供達、可愛い孫、献身的な嫁に囲まれた幸福な最後だったと思う。
斉藤信義先生への感謝の念は今でも忘れることは出来ない。
2012年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第31話「クリニックの看板」
3月で終了したNHKの朝ドラ「カーネーション」は空前の視聴率をあげたという。私も自室で筋力ストレッチをしながら、毎朝かかさずに見ていた。岸和田弁を駆使する“朝ドラ史上最強のヒロイン”と言われた糸子がドラマの主人公だが、要所に出てくる“オハラ洋装店”の看板も又、ドラマの一方の主人公であったような気がする。
そこで今回は、“クリニックの看板のあり方”について、私が日頃から考えている事を述べる。
「子供は大人の小さいのではない。子供と大人は全く違う生物だ!」
私が慶応医学部の小児科学の講義を受けた時の中村文彌教授の第一声だ。
「内科学の知識は小児科学には当てはまらない。子供の病気と大人の病気は全く別種のものと考えねばならない。これが理解できねば医師の資格はない。」
以上は私が医学生時代に受けた小児科学の根本知識だ。その後、医学全体は長足の進歩をとげ、更に各専門分野は細分化された。
最近になり匡は重い腰をあげ、一医療機関が標榜できる専門科目数の制限を考え始めたようだ。当然の事だろう。
内科専門医が小児科を併記するのはおかしな話だ。勿論、夫が内科専門医、妻が小児科専門医の場合は、内科・小児科を標榜するのは当然のことだ。二人の医師がいて、それぞれが異なる専門医の場合は標榜する科目名は当然のこと複数になる。又、二代も三代も前から併記している医療機関はわざわざ標榜科目を書きかえる必要もないだろう。
そこで思い出すのは、私の友人医師の怒りの言葉だ。彼のクリニックの隣に専門科目の違う他の医師が新規開業した。その看板には複数の標榜科目が羅列してあり、そこには友人の専門科目も含まれていた。友人は声を荒げて言った。「自分の隣に開業するのを怒っているのではない。自分の専門科目は他科の医師が片手間にできるような簡単なものではない。医学を甘く見ているのが心外なのだ!」
医師過疎地帯、無医村では一人の医師が全ての診療にあたっている。これは尊敬するべき事だが、私がとりあげた今回のテーマとは別次元の話だ。
又、世界航路の豪華客船の医師には産婦人科医が選ばれることが多いようだ。産婦人科医は、船中の急な出産に対応でき、出産以外にも開腹術の経験もあり、全身状態の管理にもたけているのがその理由だ。
話を本題に戻すと、藤沢市は過疎地、無医村、客船でもない。各科の優秀な専門医がそろっている。市民病院もあり、緊密な連絡網も充実している。
患者さんが大切な健康をあずける医師を選ぶ時、そのクリニックの看板の最初に書かれている科目がその医師の専門分野と考えて大体間違いない。
自分の専門分野の医療にプライドを持つ医師は専門外の看板を出すことはありえない。看板に誇りを持つことだ。
医師免許証は医師国家試験に合格すれば、厚生労働省から与えられる。
更に、誠意をこめて自分の専門分野の医療を生涯やり続ければ、天から“専門医の卒業証書”を与えられるだろう、と私は信じている。
2012年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第32話「嬉しい話」
私はホームページ上で毎月初めに院長余話を加筆している。その理由はホームページを公開したきりでそのまま放置するのは、何となく無責任な気がするからだ。然し、私はもとより文筆家ではない。私の稚拙な文章がインターネット上で世界中に駆け回るのは考えてみると恥ずかしい事だ。家族、友人からも中止するように幾度となく勧告された。当然な事だと思う。
然し、最近になり院長余話を続ける勇気を後押しする二つの嬉しい出来事を体験した。
1週間程前、鹿児島の未知の女性から速達でお手紙を頂いた。素晴らしい達筆で教養の深さを感じさせる文章だった。
1週間程前、鹿児島の未知の女性から速達でお手紙を頂いた。素晴らしい達筆で教養の深さを感じさせる文章だった。
その方は、私が院長余話第21回(医師としての第一歩)で書いた私の慶応医学部の先輩である山岡三郎先生のご令嬢だった。たまたま私のホームページで、私が父の臨終を看取る時に貴重なアドバイスして下さった山岡先生への感謝の念を書いた50年前の逸話をお読みになり、父君への懐かしさのあまりペンをおとりになったという。偶然とはいえ、鹿児島の方からお手紙まで頂くとは何という光栄であろうか。つくづく不思議なご縁だと思う。
次は今日(5月15日)に診察にみえた患者さんの話をご紹介する。 34才のヘビ-スモ-カ-の女性の患者さんが、私の院長余話第5回(私自身の禁煙体験記)をお読みになり、一念発起して自らの意志で禁煙に成功したとのことだ。私の余話がその方の寿命を10年は延ばしたことになる。医師冥利につきる話だ。
詳しいことは忘れたが、作家曾野綾子氏は、“自殺は悪”を主題にした著書の中で、何人の人がこのエッセイに目を通されるかはわからないが、自分の文章を読んで一人でも自殺を思いとどまってくれる人がいたら本望だとのべている。
そこで私は曾野綾子氏に対抗して(勿論ジョ-ク)、私の院長余話で一人でも多くの方が禁煙に成功なさることを祈る。
折りも良し、5月31日より6月6日は世界禁煙デー! いずれ、耳鼻咽喉科疾病と喫煙については詳しく書くつもりだ。
乞うご期待。
2012年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第33話「ペットの癒し効果」
今回は私自身が体験したペットの癒し効果について述べる。
本題に入る前に大作家の著書から引用するのは気がひけるが、オランダ紀行(司馬遼太郎著)に、オランダのキンデルダイク地方に昔から伝わる挿話として次のような話が出ている。オランダを襲った大洪水の後、ライン川に赤ちゃんと一匹の猫が乗っていた丸い板が流れてきた。赤ちゃんが寝返りを打って板が傾くと、猫がすばやく体重を移して平行を保ちながら流れ着いたという話だ。猫は赤ちゃんの救い主だ。
オランダ語で堤のことをダイクという。猫はカットで、流れついた猫にちなむカッテンダイク(猫堤)という地名もキンデルダイクの近くにある。
以上はオランダ紀行(司馬遼太郎著)からの引用です。
日本では昨年の冬、車が谷に転落して凍死しそうになった祖父とその孫を同乗していた愛犬(ゴールデンレットリバー)が、体温で一晩中二人を暖めて、凍死から救ったという話が報道された。心暖まるニュースだ。
話を本題のペットの癒し効果に戻す。
実際に私が体験した話だ。極めて多忙な一日を終えて帰宅、遅い夕食の後、血圧をはかった。日頃は正常な血圧が驚くほど上昇していた。過度の疲労で精神的にいらいらしている時には血圧は上昇していて当然だ。その様な時には血圧をはかるべきではない。常に血圧ばかり心配する高血圧不安症になるからだ、という医師の意見もある。逆に血圧が高そうな時にこそ血圧を測定して、脳出血等の高血圧に起因する発作を予防する必要があるという考えもある。医師の見解も二つに分かれる。
その時、私の食事が終わるのを待っていた愛犬プリンが膝の上に乗ってきた。プリンと戯れた至福の数分後、血圧を測り直すと信じられない事に、血圧が完全に正常値に戻っていた。私は思わずプリンの顔を見てプリンと目があった。「パパ、血圧が下がったでしょう!」、とプリンが語っていた。
動物(プリンは私にとっては家族)の癒し効果は薬石よりも効果があるようだ。それ以来私は血圧が高い時はプリンを頼りにしている。副作用皆無の最高の治療だ。プリンはきっと私を長生きさせてくれるだろう。
動物が嫌いな方は、イライラした心を癒すために、音楽を聴く或いは画をかくこと等に楽しみを持つことをおすすめする。
プリンとその家族のことについてはいずれ書くつもりだ。
2012年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第34話「耳鼻咽喉科疾病と煙草の害」
私の学生時代はハリウッド映画の最盛期であった。今のように多様な娯楽がなかったせいだろう。私が今でも忘れることの出来ない思い出の名画は、ハンフリーポガード主演のカサブランカであったろうか。格好良くタバコをくわえるポガードの姿に当時の若者は胸を躍らせた。私もその一人だった。然し世の中は変わった。映画は最近見た事がないので知らないが、テレビドラマでも喫煙場面はまれになった。最近の私はテレビ等で喫煙場面をみると嫌悪感を感じる。健康管理にたずさわっている医師としての本能だろう。
“喫煙は健康に悪”、この文言は今や世界の常識だ。
我が神奈川県は全国に先がけて、公共施設における受動喫煙防止条例を2009年に公布し、翌2010年に施行した。受動喫煙防止条例、禁煙条例ともいう。
前置きはこのくらいにして、何故、”喫煙が悪“なのか、耳鼻咽喉科領域の疾病からみた、喫煙の弊害について述べる。
タバコ煙には200種類の有害物質と60種類の発癌性物質が含まれているという。
耳鼻咽喉科疾患とタバコ毒の関連性は強い。
鼻腔、副鼻腔の癌の代表は上顎癌だが、喫煙者ではその発生率が非喫煙者の3倍、40本以上の喫煙者だと実に4倍だという。発症している鼻腔・副鼻腔癌の53%は喫煙によるものと推定されている。
又、舌癌と喫煙との関係はほぼ確定的だ。私が慶応大学医学部の耳鼻咽喉科学の講義で受けた記憶のノートには、船長さんには舌癌が多発すると書かれてある。
当時の船長さんはマドロスパイプの愛用者が多く、パイプが舌の同じ部分にたえず当たるための器械的刺激が発癌の原因だと教わった。今、考えるとタバコの発癌性がその原因であることは明白だ。当時は医学会もタバコに関しての知識が希薄だったのだろう。
代表的なタバコ病である喉頭癌では、喫煙者は非喫煙者の40倍のリスクがあるという。タバコを吸いながらノドの病気を心配するのはナンセンスもよいところだ。
タバコ煙は毒蛇 首に巻き付き 命を絶つ
次号に続く
2012年8月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第35話「耳鼻咽喉科疾病と煙草の害」
受動喫煙防止条例・禁煙条例を全国に先駆けて公布した松沢氏の行動力は賞賛に値する。
然し、思想家にして教育者の吉田松陰(1830~1859)が、「我、酒ものまぬ、煙草ものまぬ。のまぬどころか、我、煙を最も憎む」、という嫌煙論を幕末の昔すでに唱えている事はあまり知られていない。私のかってな想像だが、松陰の松下村塾(幕末に長州藩士吉田松陰が講義した私塾)では屋内、敷地内全面禁煙であったろう。
話を喫煙と耳鼻咽喉科疾病の関連性にもどす。
タバコとは一見無関係に見えるが、家族の喫煙が幼児の治りにくい中耳炎のリスクファクターとしてあげられている。こどもの中耳炎は代表的な受動喫煙によるタバコ病だ。私は中耳炎のこどもさんを診察する時に必ず両親の喫煙の有無をカルテに記載する。
喫煙者を両親にもつ乳幼児の中耳炎が治りにくいことは、日々経験している事実だ。喫煙者の両親は必ず、「こどもの前ではタバコをすわないようにしています」、と言うがこれは言い訳にはならない。
1本タバコを吸うと2時間から3時間、その喫煙者の呼気にタバコの有害物質がはいっているからだ。又、換気扇、空気清浄機も効果はない。
アイルランドの統計では、幼児の難聴の75%が受動喫煙によると言われている。
喘息児の両親が喫煙者であると、思わず声を大にして禁煙を指示してしまう。
嗅覚障害、味覚障害も又、タバコ煙のシアンカ水素によると言われている。嗅覚、味覚は人生を楽しむための大切な感覚だ。嗅覚・味覚異常は料理の微妙な味を楽しむ事が出来なくなる。腐敗臭も分からずに、腐った食物を食べてしまうこともあるだろう。火事の煙の臭いもわからずに、逃げ遅れるかもしれない。
又、高齢者の難聴も、喫煙、受動喫煙が加齢による内耳の変化に拍車をかけるという。
年間の死亡者数は、アスベスト 900人、交通事故 6,800人、受動喫煙による死亡者数は19,000人~3,2000人に達すると推定されている。
尚、受動喫煙に起因する疾病の詳細は文末に記載されている長谷章氏(長谷内科医院院長・藤沢市タバコ対策委員長)提供のグラフを参照して頂きたい。
“喫煙の健康被害は自己責任”と、いう理論は成り立たない。喫煙は関係ない家族、周辺に害をまき散らすからだ。
喫煙の健康害に関する限り、自己責任の理論は、離れ島で一人暮らしする場合にのみ許されることだろう。
タバコの悪臭は鼻を曲げ、タバコ毒は内蔵を破壊する
2012年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第36話「猛暑日本列島」
今年の日本列島は暑かった。7月に岐阜で観測された39.4°が、今年の最高気温であったという。まさに狂ったような猛暑だ。
この猛暑、高温多湿のため体調を崩した患者さんが多かった。いわゆる熱中症、体温調節の不良、それにつけこんだウイルス感染、小児科医が好んでつかう“いわゆる夏カゼ”だ。冬のインフルエンザ流行期と異なり、比較的、軽い症状で治癒するケースが多い印象をうけた。この原稿を書いている9月12日も発熱、ノドの痛みで来院した大人の患者さんを多数診察した。尚、ウイルス感染症以外に、めまい、浮遊感、突発性難聴、帯状疱疹(ヘルペス)、トビヒ、チャドクガ皮膚炎の患者さんが例年よりはるかに多かった。体温調節異常による体力低下、睡眠不足、それにストレスが過剰に加わったためだろう。
クーラーで冷えた部屋、外出すれば猛暑、体温調節機能は混乱してしまう。特に、調節機能が低下している高齢者、調節機能の未熟な乳幼児は温度の変化に対応しきれず、体温の異常を起こして当然だ。「クーラー病」、という言葉を当てはめる医師もいる。簡潔にして的をいている病名だが、正式な医学用語としては認められていない。
エアコンをつける、その排熱が気温を押し上げる。まさに悪循環の繰り返しだ。車の排熱、全国に普及している舗装道路による照り返し、ビル群はそれに加えて風の流れを妨げる。都市開発のため、日陰を作り水分を蒸発する樹木も少なくなっている。この都市化によるヒ-トアイランド現象が猛暑の原因であろう。
又、「温暖化は地球全体の問題だ」、という解説を新聞で読んだ。
この解説を読み、私は慶応高校時代に受けた西岡秀雄先生の人文地理学の講義を思い出した。西岡先生のライフワークは「寒暖700年周期説」だ。何しろ、私が高校生の頃の記憶で、講義のノートも紛失してしまい、おぼろげな内容しか覚えていない。そのかすかな記憶では地球温暖化の原因はCO2だけではない。地球は“寒暖”を700年周期でくり返している。西岡先生の講義では、奈良平安時代は暖かく、公家を中心とした王朝文化が栄えた。寒い鎌倉時代になると、殺伐とした風情の武士が幅を利かした。文化史の上で気候が与えた影響が大きい。その他にも、樹木の年輪、桜の開花時期の変化等から、地球の寒暖は700年を周期としてくり返されている事に確実な根拠があるとしている。そして、21世紀頃には最暖期を迎えるだろう。昨今の温暖化はその道筋に過ぎないと、西岡先生が断言なさった事だけははっきりと覚えている。今、まさに21世紀だ。西岡先生の学説は正しかったのだろうか。
西岡先生の期末試験で、「寒暖700年周期説によれば、来年は今年より気温が高いか?」、yes no で回答しろという問題が出た。私の答えは no だ。yes と答えた学生は単位を落とした。
講義中に温暖化は周期的変化であって、直線的に変化する事象ではないと何回も念をおされたからだ。
何故、60年も前の高校時代のテストを記憶しているのか、私には分からない。西岡先生のお人柄の故だろうか。
今年の夏は暑かったが来年の夏は更に暑くなるのか、西岡先生にお会いできればお聞きしたい。
2012年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第37話「梅チャン先生」
私は先月で終了したNHKの朝ドラ「梅チャン先生」の主人公に強い親近感をいだいている。開業医同士ということもあるだろうが、私が幼児期を梅チャン先生の診療所の近くで過ごしていたのが、一番の理由だろう。
横濱で生糸貿易をしていた私の父はアザレアの栽培を趣味にしていたが、趣味の域を超えて未品種のアザレアを作ることを夢見て、蒲田に農園を造った。照日園という。そこで私が生まれ6才迄蒲田に住んでいた。慶応幼稚舎に入学し洗足に転居する迄の幼児期は梅チャン先生の近くにいたことになる。
尚、私の母方の叔父は蒲田蓮沼町で小児科医院を開いていた。その頃、地域医師会があったとすれば、私の叔父と梅チャン先生は同じ医師会に所属していたことになる。又、私の二番目の姉は今でも蒲田に住んでいる。
私の想像では、梅チャン先生が卒業した医専は明らかに帝国女子医専だ。現在、帝国女子医専は東邦大学医学部と改名している。
私自身は慶応医学部出身だが、長姉の疋田昌子(鵠沼海岸の疋田眼科の院長)は帝国女子医専が母校だ。ドラマから推察すると、姉は梅チャン先生の1~2年先輩のようだ。
そして更に偶然だが、私の診療所で週一回レーザー治療を行っている次女さゆりは東邦大学医学部出身で梅チャン先生の後輩にあたる。
東邦大学の父兄会は青藍会と名付けられている。私はさゆりが在学している6年間、青藍会の理事に任命され、さゆりが医学部6年生の時には青藍会の会長の重職を与えられた。他校の卒業生が青藍会の会長を務めるのは、今もって例外とのことだ。
青藍会の銘々の由来は、“藍は青より出でてその色いよいよ青し”で
学校当局、学生、父兄の結びつきを強くするためと言われている。
東邦大学医学部は私の母校慶応医学部に比べるとはるかに家庭的な優しい雰囲気だった。もし私が梅チャン先生の父上(おそらく国立大学医学部内科教授)のような頑固な性格だと学校当局が感じていたら、私を青藍会の会長にはしなかったであろう。学校当局と父兄会との間に隙間があいてしまうからだ。
さゆりの卒業式の日、当時の医学部長、大学病院の院長と並んでひな壇から父兄を代表して祝辞を述べた時の緊張は今でも覚えている。
「諸兄は大学卒業後、基礎医学の研究者、大学病院及びその関連の総合病院で研究・最先端医療に没頭する勤務医、或いは実地開業医の道のいずれかを選ぶだろう。 中略。 開業医は常に自分のクリニックにいて、笑顔で患者さんに接することが重要である。 後略。」まるでテレビドラマ「梅チャン先生」を頭に描いたようなスピーチをした記憶がある。
更に、嘘のような偶然だが、蒲田で過ごした幼児期、私の身の周りを世話してくれた私付きのお手伝いさんの名前が“梅”で、私は梅チャン、梅チャンと呼んで母親のように慕っていた。この梅チャンとは洗足に転居した時に別れた。その後も蒲田に住んでいた私の梅チャンは、米軍の爆撃のため消息不明になってしまった。
今、私の梅チャンの事を思い出していささか感傷的になっている。
最後に懐かしい私の梅チャンがポーズをとっている思い出の写真をのせる。撮影(1938年夏)、家族で鵠沼海岸に海水浴に行った時の写真だ。遠くに江ノ島が見える。
2012年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第38話「ノドの精密検査」
当然の事だが、ノドの異常で耳鼻咽喉科医を受診する患者さんの数は多い。口を開ければ見える範囲のノド(咽頭)の病気が多いが、ノドの奥にある喉頭(ノドボトケの中)の病気を見逃すと危険なことがある。
耳鼻咽喉科医の研修で、最初に苦労するのが喉頭の診察だ。間接喉頭鏡(写真1)という器具を片手に持ち、患者さんに舌を出来るだけ長く出して頂き、それをガーゼにくるんで思い切り引っ張ってノドの奥を見るのが基本だ。しかし、乳幼児や口を開けるとゲーゲーするノド反射の強い患者さんのノドの奥を小さな鏡で照らして見るのは至難のわざだ。無理に舌を引っぱって舌の下を傷つける事もよくある事だ。
然し、どんなに無理をしても喉頭及びその付近の炎症、腫瘍を見逃す事は出来ない。患者さんも、耳鼻咽喉科医も泣かされたものだ。だが、間接喉頭鏡の手技に精通しなければ“耳鼻咽喉科専門医の資格なし”、と言われた。
然し時代が変わった。いつのことかは正確には覚えていないが、40年ほど前、今の軟性喉頭ファイバースコープ(写真2)が一般化して、喉頭の診察が無痛に、しかも正確にできるようになった。
耳鼻咽喉科外来診療の革命だ。
喉頭ファイバースコピーは経鼻的に行うために、鼻の奥、ノド、喉頭(写真3)(写真4)及びその周辺まで一度に正確に診察する事ができる。
副鼻腔炎(ちくのうしょう)、ノド及び喉頭の危険な炎症、癌等の腫瘍を見逃す事がなくなった。何という進歩だろう。
以前は、仮性クループ(夜間起こる乳幼児の一時的な呼吸困難))で片付けられていた乳幼児の喉頭も危険か危険でないかを正確にみる事が出来る様になった。又、成人が窒息死する危険のある喉頭蓋炎(写真5)、喉頭浮腫(写真6)の早期診断も可能になった。
声ガレの鑑別診断もファイバースコープを使用すれば比較的簡単だ。
声ガレの原因は、声の使い過ぎによる単なる喉頭炎、声帯ポリープ(写真7)写真(8)、声帯結節(写真9)、前癌状態声である声帯白斑症(写真10)、喉頭癌(写真11)、加齢による声帯の萎縮等がある。喉頭癌の確定診断には病理学的細胞検査が重要だ。市民病院、大学病院に紹介精査を依頼している。
医師である私自身も自分が胃癌、大腸癌、前立腺癌を発症するのではないかと、内心ではビクビクしている。然し、喉頭癌になる心配はしていない。理由は禁煙者だからだ。喫煙者は喉頭癌の心配もしなければならない。喫煙は絶対に危険だ。
尚、最近ではノドの異常感を訴える逆流性食道炎の患者さんが多い。その疑いのある患者さんは、胃内視鏡の上手な専門医に紹介している。安心してご相談いただきたい。
追記 今回の院長余話は、写真も多く載せたのですが専門的過ぎておわかりにくかったと思います。
ノドの病気がご心配の方はどうぞ早めにご来院下さい。
精密検査の上、詳細に説明し、責任をもって加療いたします。
2012年12月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第39話「プリンの御正月」
私の愛犬プリンは、下顎の抜歯、歯周組織再生療法(EMP療法)という先進医療を日大動物病院(藤沢市亀井野)で受けた。昨年11月末のことだ。お陰様で元気になり最高のお正月を迎えられた。
最初にお世話になった日大動物病院(亀井野)についてふれるのが礼儀だろう。執刀して下さった准教授の先生、その周りの先生方、スタッフの人達、病院全体の雰囲気等ほのぼのとした温かみを感じた。
多分、犬を動物として扱わず人間と同じか、或いは人間以上の存在として接しているためではなかろうか。
さて、プリンの手術のことに戻る。全身麻酔下で行われる事になったので、手術日が決まってからの1週間、私は不安で夜も眠れなかった。
たかが犬の事ではないか、と考える人も多いと思うが、プリンは私にとってはかけがえのない宝物だ。プリンがいない生活など考えられない。
私と、ゆかり副院長の二人でプリンを連れて日大病院に行った。簡単な視診の後、C.T等の精密検査、ていねいな説明の後、手術が施行された。心配していた全身麻酔も無事に行われ、手術後の経過も良好だった。
完全に麻酔がさめた翌日、私が予期していない事がプリンに起こった。あのわがままなプリンが手術後、人(?)が変わったように素直になったのだ。
手術前にあった下顎の不快感によるイライラが無くなったためだろうか。暇さえあれば抱きしめていたのに、何故もっと早くプリンの苦痛に気づかなかったのだろう。私は自分のうかつさに不覚にも涙を流した。
“涙を流す”、院長余話の何処かで書いたような気がして、掲載一覧を読み直した。滲出性中耳(第12回)の所に、我が子の耳の悪い事に気づかなかったお母様のエピソードを書いてあった。
略記すると(詳しくは第12回をお読み頂きたい)、長期間治療されずに放置されていた滲出性中耳炎のお子さんが、私の治療直後から急にすなおになり聞きわけがよくなった。それ迄、耳の不快感が強かったのだろう。それなのに治療せずに放置してかわいそうなことをしてしまった。本当は良い子だったのに。涙、涙!
私もプリンの苦痛を見落とすという同じ過ちをおかしてしまったのだ。
追記
本年は嬉しいことで幕を開けた。
1月15日発売(1月20日号)の週刊朝日の犬ばか 猫ばか ペットばかという頁に投稿した私のコラムが採用された。週間朝日は名だたる全国規模の週刊誌だ。その欄への投稿は全国から無数に殺到するので、採用される確率は宝くじに当たるようなものだと言われている。私の雑文が選ばれた事は最高の光栄だ。
お読み頂ければ嬉しい。
2013年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第40話「干支とペット」
私は干支には興味がない。自分の誕生年がいぬ年であることを漠然と知っている程度だ。いぬ年生まれだから犬好きだったと思っていたのだが、犬年と書くのではないと知り自分の無知にあきれた。
正月の年賀状を読み、今年は巳年で、蛇の年である事を初めて知った。それにしても、大蛇を体に巻き付けたり、触ったりして“可愛い”、という子供達がいるのをテレビで見て驚いた。
更に、蛇をペットにしている人が多い事も知った。私自身は、蛇の体型、冷たそうな皮(肌?)を見ると、ペットにする気にならない。
だが、医学的見地から考えると、アレルギー体質の方には、毛長の動物(犬、猫、鳥等)よりも、蛇の方がペットに適しているだろう。
然し、毒蛇もペットとして売られていると聞き耳を疑った。しかも自分で飼っている毒蛇に嚙まれて、命を落としそうになった人がいたという。毒蛇の売り手、買い手共に理解の外だ。
さて、毒蛇は論外として飼い猫、飼い犬による危険も皆無ではない。
最近の事だが、慶応医学部の同級生が、自分の家で飼っているネコに引っかかれ、ネコ引っかき病で慶応病院に入院し、暫く車椅子の生活を余儀なくされたという。飼い猫も油断出来ない。
又、私の患者さん(中年の女性)が指に包帯を巻いているので、理由を伺ったら、知人の家のチワワを撫でたら噛みつかれ、外科医の治療を受け縫合したという。うっかり犬に手を出すのも危険だ。絶対に知らない犬を触ってはいけないと、子供の頃、親に言われたことを思い出した。
又、ある知人が、ペットの仔猫を抱いて散歩中に、リードをつけていなかった大型犬に飛びつかれ、仔猫は嚙まれて即死。仔猫が自分の身代わりになってくれたと涙を流していた。犬は仔猫のみを襲ったと思うのだが、彼の愛猫への心情を考え私は沈黙を守った。
今回の院長余話は、干支から書き始めているので、先月(1月号)に載せるべきであったが、プリンのお正月を優先してしまった。
今年も、又、私の生活の優先順位トップの座をプリンに占められそうだ。
2013年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第41話「プリン姫」
12年ほど前の11月、大きな波紋が我が家に起きた。
当時、大学病院の勤務のために、東京のアパート住まいをしていた次女と私達夫婦3人、久しぶりに横浜で食事をした。食後急に表情、語調を改めて次女が重大な発言をした。
「お姉様の誕生日に私が犬をプレゼントします。誕生日にあわせて犬が届きます。まさか私のプレゼントを送り返すような事はしないでしょうね。お姉様もこの事は知っています。」
第25回に書いたように、私たち夫婦は犬好きではあるが、二代目チョコの事で、犬を飼うのは止めようと日頃から話しあっていた。然し、娘二人は秘密裏に犬を飼うことを決めていたのだ。
「娘二人の共同作戦だ」、私は反論できなかった。
甘い親と言われるかも知らないが、私の希望通りに耳鼻科医になった娘には強い事が言えなくなっていた。しかも娘二人が完全に結託している。私は破北を認めた。帰宅後、長女に問いただすと、「私が妹に言わせました。犬の種類まで決まっています。反対はなさらないでしょうね。」
犬が来ることに決まった日曜日、私は犬を見るのが嫌で、わざと用を作り外出し夜遅く帰宅した。居間のゲージの中にいるワンコをこわごわと見た。犬と目があった瞬間、私の体に電流が走り、その後の私の生活は一変した。これほど可愛い生き物があるだろうか。
犬種はパピヨンの雌、名をプリンと名付けた。
プリンの私へのなつきかた(私がプリンになついたと表現した方が正確かもしれない)は、文章に書くよりも写真の方が正確に表現できると思うので、院長室における光景をのせる。
私とゆかり副院長がクリニックで診療中は、プリンは院長室のゲ-ジの中で寂しそうにしている。
私はプリンが可愛そうでたまらなくなり、遊び友達としてもう一匹の犬を飼った。プードル・名はサフィ-。我が家のワンコは2匹になった。
その後、プリンが将来、乳癌、子宮癌になる危険度を減らすために子供を産ませた。雄はピピン、雌はアニスと名付けた。
計4匹の大所帯になった。
プリンは今の私にとっては単なる愛犬ではなく宝物になった。
現実にプリン当人(?)は、女王のような態度で我が家に君臨している。
最後にプリン姫をご紹介して今回の院長余話を終わる。
2013年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第42話「私の院長室」
1969年、新規開業するにあたって、長姉(疋田昌子・疋田眼科院長)に院長室の設計を相談したところ強く叱責された。
「開業して、院長室でくつろぐ暇などあると思っているのか。院長室など作る必要はない」。姉の強力なアドバイスだ。
私は姉の意見をとりいれ、院長室をつくるのはあきらめ、控え室のような小部屋を院長室の代わりにした。その後、医師会の先輩、友人のクリニックを尋ねると、みんな立派な院長室を持っている。うらやましかった。
1998年に、今の診療所に移転する時には、自分なりに立派な院長室を設計した。院長室のためのスペースを確保し、家具も買いそろえ、誰を迎えても恥ずかしくない院長室を手にした。やっと小さな夢がかなったと思ったが、それも2年しか続かなかった。
その夢は愛するプリンによって壊された。プリンが子犬の頃の話だ。ある日、院長室に置かれていたゲージから脱出したプリンが大事な家具を、噛んで傷だらけにしてしまった。家具など買い直せば良いと考えたのが甘かった。その1年後、プリンの遊び友達として、かったサフィー、そしてプリンの子供達(ピピン、アニス)の大家族によって完全に院長室は占領され、ワン子の部屋になった。
然し、私は後悔していない。診療で疲れた時、ワン子の部屋に行き、プリンとじゃれあうと、疲労が嘘のようにとれる。
私は、生涯ついに院長室を持つ事が出来なかったが、それにまさる憩いの部屋で、可愛いプリン達に囲まれている。それで十分だ。
実は、今回の院長余話に院長室を取りあげた理由は、プリンとその家族の写真を皆様に見ていただきたいと思ったからだ。
“院長の椅子”を占領して、並んで座っているプリンの家族は実に可愛い。
考えて見ると私はプリンが来る前にも、この椅子に座ってお客様と話しをしたり、くつろいだ事などない。だいたいお客様が見えた事さえない。ここまで書いて重大な事に気がついた。
「私のお客様は患者さんではないか」、とすれば、患者さんを診療する診察室こそが、“私の生涯の院長室”そのものだ。私は誰にも負けない院長室を持っていたのだ。夢は既にかなっていた。
2013年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第43話「犬のしつけ論争」
私が曾野綾子氏のエッセイを愛読していることは前にも述べた。 曾野氏はあるエッセイの中で、犬のしつけのことにふれている。その内容のあらましは次のようだ。 「犬を飼っている人は、人間関係ならぬ人犬関係をはっきりさせなければ、犬は飼い主への従属がわからなくなってしまう。人に餌をもらわないと生きられない犬にとっては過去も未来もなくあるのは現在だけだ。機会あるごとにこちらが飼い主であるという人間と犬との位置を常にはっきりさせた上で可愛がるべきだ。」 私が、曾野氏の“膨大なエッセイ集”を読み続けているのは、その辛口の内容に、賛同する部分が多いからだ。しかし、今回の犬のしつけのエッセイはいただけない。真っ向から反対だ。反論を試みたいのだが、プロの作家である曾野氏に文章の表現能力で勝てるはずはない。そこで卑怯なようだが苦肉の策として、プリン姫の写真集を掲載して対抗する。プリン姫は犬ではない。写真をみて判断して頂きたい。犬以上だ。
光栄にもこの余話を曾野氏が読んで下さって感想を頂けたら(現実にはあり得ないが)、次のような内容になるだろうと想像する。
2013年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第44話「語学教育」
私は教育者ではないので、語学教育について論ずることはできないし、その資格もない。私の過去の経験、現在体験している事を述べるだけだ。
数年前、日本を一人で旅行中のドイツ人が耳痛のため私のクリニックを受診した。彼は私の年代の医師がドイツ語教育を受けていることを知っていて、言葉については安心して来院したようだ。治療は簡単だったが、私には病気について彼に説明するドイツ語の会話能力がなかった。やむなく、カルテに医学用語をドイツ語で書いて病気の説明をした。
私達の医学部予科時代は、外国語の必修科目は英語で、ドイツ語、フランス語の内の一つが選択科目であった。正確には覚えていないが、ほとんどの医学生がドイツ語を選択した。現在はアメリカ医学が主流を占めているが、当時はドイツ医学が色濃く残っていた。我々に講義をする教授達がドイツ医学の信奉者が多かったためだろう。
医学部本科に進学するためには、語学の成績がかなりの比重をしめていたため、ドイツ語の勉強にはかなりのエネルギーを費やした。そのかいがあってか、辞書なしにドイツ語の原書を読めるようになった。しかし当時の語学教育では日常の会話を話せるようにはならなかった。
何しろ、最初に与えられたドイツ語の教科書は、モーゼの十戒(トーマス・マン著)だった。ヘブライ人(ユダヤ人)の脱エジプト記を習っても、ドイツ語で朝食を頼むこともできないし、患者さんと対話することも不可能だ。
院長余話第21話でふれた私の父は、慶応の普通部(中学)を卒業後、一人で渡米してコロンビア大学で学んだために、英会話は堪能だった。然し父の弟(私の叔父)は、慶応大学を卒業後ニューヨークにあった祖父の会社の支店で長年仕事をしていたが、アメリカ人と話をするのが嫌で、会社から外出できなかった(今でいう引きこもり)ために、けっきょく英会話を覚えられずに帰国したという。
語学教育の是非はともかく、外国語会話を完全に習得するには、数年間その匡に滞在するよりほかないようだ。そして、ひたすらにその匡の言語を聞き、しゃべり続けることが必要だ。
猫語レッスン帳(大泉書店)という本があるそうだが、私は現在“犬語会話”の習得に挑戦している。愛犬家の方には理解して頂けると思うが、愛犬プリンと対話したいからだ。犬(私にとっては家族)と会話できるようになるのには、ひたすら愛情をそそぎ続ける事が必要だ。そして互いに顔を見つめあいながら、くりかえし、くりかえし根気よく話しかけなければならない。プリンの方が私よりも学習能力があるようで、私の“話しかけ”を、ほとんど理解するようになった。残念だがプリンは犬なので、ウー、ウー、ウーとしか言わないが、そのウーには文章には表せないいくつかの違うトーンがある。食事が欲しい時、水が欲しい時、私の部屋に行きたい時、甘えている時、怒っている時、本格的に眠りたい時で、ウーのトーンが全て違う。今の私は全て聞き分けることが出来るようになった。
私とプリンが何故、人間と犬という“異なる種”に生まれたのか残念でならない。
シェクスピアの名セリフを拝借すればーー
2013年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第45話「専門医の優れた感と技術」
磨き抜かれた洞察力、優れた医療技術を持った二人の整形外科医のエピソードをご紹介する。私の慶応医学部同級生のI医師と、私が藤沢で開業以来、共通の趣味を通じて親しくなった良きライバルのK医師だ。
開業して間がない頃、私は左の腕に軽い痛みを感じた。最初のうちは、新規開業によるストレスからの疲労が原因だろうと気にもとめなかったが、その痛みは半年位の間に徐々に進み、最後には激痛となり、強力な鎮痛剤も全く効果なく、一睡も出来ない夜が続く様になった。ついに我慢出来なくなり、I医師(伊勢原協同病院整形外科部長)の診察を受けた。
簡単なレントゲン検査の後、I医師は熟練の大工さんが無造作に釘を打つように、立ったままの状態で私の頸の全面下部に麻酔剤の注射をうった。
注射を受けた瞬間から嘘のようにその痛みが消え、二度と再発しなかった。この注射は根本的治療ではないから、理論的には再発するのが普通だ。然し、私にはその痛みは二度と起こらなかった。I医師も、一回の注射で治った患者はみた事がないという。その注射が危険な治療である事は私も承知していたが、彼の行為があまりに素早かったために考えるいとまがなかった。私は今でもその整形外科医を友達ながら神のようにあがめている。
次に、K医師の話だ。30年程前の元日の朝、今年こそは良い年であるようにと祈りつつ、洗顔するために腰をかがめた瞬間にギックリ腰。あまりの痛さに耐えられず、K整形外科医に「元日、早々に悪いが診察して欲しい」、と電話で頼んだが、わざわざ診察に来るより腰を温めて寝ている方が得策であるとのアドバイス。おそらく3日間で痛みがとれ、4日目には歩行可能となり、正月の5日から平常の診察が出来るだろうと予告された。まさに、彼が予想した経過を正確にたどり、1月5日の診療は無事に遂行。彼の見通しの正確さには感心した。
次に、私の家に泊まりがけで遊びに来ていた3才の姪が、夜中に急に脚が動かなくなったと泣き出した。翌朝K医師に電話。その時も話を聞いただけで、“心配ない、夕方には歩けるようになる”、と断言された。その通りになったから不思議だ。
優れた専門医が持つ、“卓越した技術と優れた感”、には驚かされた。
私も自分の専門分野である耳鼻咽喉科疾患への“感・熟練した技術”に関しては彼等に負けない自負を持っている。
その詳細は次号に述べる。
K医師は藤沢市医師会会員なので、その写真は掲載しない。
2013年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第46話「神業」
数日前、診療所の電気の故障を修理中、折り悪く鰻の小骨をノドにひっかけた中学生が来院した。修理が終わる迄、20分程待って頂くように話したが、塾に行くために時間がないという。苦痛がそれ程でないので、翌日の診察時間を予約してゆっくり診察しようと話したが、翌日はどうしても学校を休めないとのこと。仕方なく自然光でノドを見たが暗くて何もみえない。多分、このあたりだろうと見当をつけて扁桃腺のあたりをピンセットでさぐり、引き抜いたらピンセットの中に目当ての小骨が入っていた。長年の修練のたまものだろう
そこで、思い出したのが大リーガーイチロー選手のトーク番組だ。その番組は、ライトイチロー選手のファインプレーの数々を見せていた。その場面を自ら解説しながらイチローが言った。「残念だが、自分の最高のファインプレーはこの番組には写っていない。何年か前のナイターで、ライトに凡飛球があがった。捕りに行こうと思った瞬間、照明の光が目に入り視力を失った。何も見えないまま走り、打球音から判断して多分このへんだろうと思いグローブを出したら、ボールがグローブの中に入っていた。見えないボールを捕ったそのプレーが生涯最高の思い出だ。凡飛球だったので、他の選手、観客の誰もそれに気づいていない。」
私のピンセット、イチローのグローブの先には眼がついていたのであろうか。私の小骨とりと、イチロー選手のボールとりと同じではないか。
私がイチローの域に達したのか、イチローが私に追いついたのかわからない。参考迄に私の方がいささか年上だ。念のため!
2013年8月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第47話「開業医の喜び」
個人で開業すると、大学病院や総合病院のような高度の最新医療を行う事はできない。そのため、「この患者さんの命を助けた!」、と言うような大きな喜びに遭遇することは少ない。
然し、開業医には勤務医時代には味わうことのできない開業医独自の喜びがある。
大勢の医師がグループで診察する勤務医時代と違い、患者さん一人一人に「自分の患者さん」、という意識が強くはたらくためだろう。
開業医独自の喜びを表現するのには、私を心から頼りにして現在通院して下さっている患者さんの事、私の記憶に強く残っている患者さんの想い出のことを述べるのが良いだろう。
まだ小学生なのに成人したら私と結婚すると決めている可愛いお嬢さん、そのお母さんも私の大ファンで週に2回は私に会わないと気がすまないと現在通院中。開業医冥利につきる話だ。
結婚といえば、20年程前、一人の若い女性の患者さんが、診察を受けるためではなく私を訪ねてみえた。彼女の訪問の理由は、結婚のために外国に行ってしまうのでもう私に会うことはないだろう。その話を私にするのが目的だった。「長らくお世話になりました。そのお礼に伺いました。先生もお達者でお過ごし下さい。」私はその瞬間、花嫁の父になったような気がした。
ご自宅の隣に耳鼻科のクリニックが出来たのに、電車に乗ってわざわざ私のところに通院している慢性疾患の患者さん、98才のご高齢にもかかわらず定期的に来院して、毎回握手してくださる患者さんも生涯忘れる事はできないだろう。
5才の別のお嬢さんからは私の似顔絵を頂いた。本当に可愛い。
最近結婚し、東京(勝鬨橋)の近くに新居を構えた幼児期からの女性の患者さんも、その方のメモリ-の中には、私の事が強くインプットされているとのこと、嬉しい話だ。
患者さんに好かれ当てにされる事が、何にもまさる開業医の喜びだ。
2013年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第48話「診療と平和」
10年1日という言葉があるが、私は開業以来50年1日の様に診療を続けている。と、いうより“好きな診療”を続けているうちに、あっという間に50年がたってしまったと表現した方が良いかもしれない。実に充実した日々の連続だ。
ところで、私は威張っている人が大嫌いだ。私自身、家族スタッフに威張って接したことはない。(余談だが、私のまわりで一番威張っているのは愛犬プリンだろう。プリンの威張り方については、来年一月号の院長余話に掲載予定だ。是非お読み頂きたい。)
私のクリニックには明るい楽しい雰囲気が常に漂っている。穏やかな心を常に私に保たせてくれる約20人のスタッフに感謝の念で一杯だ。
私のクリニックの朝は、スタッフがそろった直後、私が出勤して始まる。朝の簡単な挨拶の後、スタッフと無駄話を20分程する。喋るのはほとんど私だ。「昨日、プリン(愛犬)がどうしたこうした。今朝の“あまちゃん”は面白かった――等々」。私がしゃべり続けるのだが、スタッフは、友達のようにチャチャを入れながら聞いてくれる。スタッフ達の方が私よりも大人なのかもしれない。
数年前、「朝は朝礼から始めなければいけない」、と大先輩から忠告された事があった。スタッフにその旨を告げ、ある朝朝礼を行ったが、ぎこちなくて一日で止めてしまった。本当の朝令暮改だ。スタッフとギスギスした関係では長い一日の診療を行えるはずはない。白衣に着替え、最初の患者さんに向き合った時、私はスイッチを入れ替えプロの医師となる。
楽しいく明るい雰囲気で患者さんに接するのには、院内が平和であることが必要条件だ。今の良い雰囲気のままスタッフとの関係を維持したいと私は切望する。
この私のポートレイトを誰か買わないかとスタッフに持ちかけたが、全員の答えは no だった。スタッフにとっては、“実物の院長を只で見ている方が楽しいのだろう”、と私はかってに想像している。
表題の“診療と平和”は、トルストイの名著“戦争と平和”をもじってつけた。
2013年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第49話「武見太郎先生」
武見太郎氏(1904~1983)・1957年から25年間の長きにわたり、日本医師会長として君臨し、1975年には世界医師会長の要職につく。喧嘩太郎の異名を持ち、1971年7月には保険医総辞退を指揮した。又、時の厚生大臣の訪問を門前払いした逸話の持ち主だ。
その強面の武見太郎氏に心優しい一面がった事をご紹介したい。
矢野耳鼻咽喉科の副院長・矢野ゆかり(私の長女)が北里大学医学部の1年の時、医学史のレポートを提出するように命ぜられた。宿題だったと記憶する。読書家のゆかり副院長は野口英世の業績から、加藤元一(不減衰学説でノーベル賞候補にあがる)の著書まで読みあさった。然し、レポートの完成がものたりなかったらしい。
怖いもの知らずというか、自分で武見氏に手紙をだした。お返事を頂けるとは思っていなかったらしい。驚いたことに、武見氏ご自身から私共の家に、「自宅で会い面談したい」、というお電話があった。武見氏は慶応医学部卒(私の大先輩だが一度もお会いしたことはない)、ゆかりは北里医学部の学生だ。厚生大臣さえ追い払った強面の武見氏が、ご自分の後輩でもない一医学生をご自宅に招いて下さったのだ。我々は感激で震えた。
ゆかりは、花束を持ち武見先生のご自宅に一人で向かった。
武見先生は、優しくゆかりに医学史の話をして下さり、今後、「ゆかりが歩くべき医師の道」、を説いて下さったという。そして、夕食までご馳走してくださり、武見先生の座右の銘である「医心貫道」の色紙を書いて下さった。この色紙は、額に納めて私共の診察室の壁に飾ってある。私共のお宝だ。
大人(タイジン)は小人(ショウジン)を育てるべし その小人(ショウジン)は育ちて後 続く小人(ショウジン)を大人(タイジン)に育てるべし
誰の言かは忘れた
2013年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第50話「病巣感染(びょうそうかんせん)」
最近、掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)で悩んだ女優さんの闘病記を拾い読みした。この女優さんは愛犬家でありながら、ヘビースモーカーであるという。喫煙は掌蹠膿疱症というややこしい名前の病気には天敵だ。犬に掌蹠膿疱症があるかどうかは知らないが、私は犬の健康の方が心配になる。
犬の方を人間より心配する私は
医師として失格だろうか?
本題に入る。
一般の方にはあまり知られていない病名だと思うが、私のクリニックに典型的な掌蹠膿疱症の患者さんが診察にお見えになり、写真を撮ることを快諾してくださったので、今回はこの話題を取り上げることにした。
掌蹠膿疱症は病巣感染(びょうそうかんせん)の代表的な病気だ。
ややこしい話だが、病巣感染とは、慢性の扁桃炎、虫歯等の慢性炎症が身体の何処かに隠されていて、それとは一見無関係を思われる皮膚の病気、リュウマチ等の全身的な病気の源となる場合、その基の病気を病巣感染という。
“病巣感染”という言葉からも連想されるように、鳥が何処かに巣を造り、飛び立って遠隔地をフンで汚すようなものだ。
耳鼻科領域では、慢性扁桃炎が主役だ。そして、被害を受けるのが皮膚である事が多い。
慢性扁桃炎→皮膚疾患
と、いう図式だ。
皮膚疾患の中では、掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)という疾患がしばしば問題となる。私のクリニックに見えた患者さんもこの皮膚病の患者さんだ。
勿論この病気は命に関わる病気ではないが、患者さんにとっては、不愉快極まりない。手洗いもままならず、靴を履くこともできない。深刻な悩みだ。病気の源である扁桃炎は表にでないので、患者さんは当然皮膚科医の診察をうけ、内服薬、軟膏の治療を受ける。そして問題になるのは、皮膚科医の中でも、病気の基と考えられる扁桃腺をとる事に賛成派と非賛成派があることだ。
耳鼻科学会の研究では、扁桃腺をとる事の効果は、81.9%と高率だ。皮膚科医と耳鼻科医の考えがまとまらなければ患者さんを余計に悩ませるだけだ。
我々耳鼻科医は、掌蹠膿疱症で一生悩むより、扁桃腺の手術を行うべきだと思う。扁桃腺の手術は、入院5日位、手術後のノドの痛みは数日だ。必ず掌蹠膿疱症が扁桃腺の手術で治るという保証はないが、
手術を選択する方が賢明だと私は考える。
「扁桃腺はとるべきか、とらざるべきか、それが問題だ。」
この文言は大昔から医学会で論議されている。もしかすると、シェクズピアの名言より以前からあったのかも知れない。
追記:喫煙が掌蹠膿疱症の発生率を7.2倍に増加するという
喫煙で増加して、禁煙で緩和する。
尚、朝日新聞の夕刊(2013年11月30日付け)に飼い主の喫煙習慣が犬のアトピ-性皮膚炎の発症リスクを増加すると書かれてあった。
2013年12月2日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第51話「支配者プリン」
昨年度の院長余話は、「プリンの正月」を新年号として掲載した。それから、1年がたちプリンと私の地位が逆転した。
今では、完全にプリンの方が私の上位をしめ、私を顎で使っている。普通の犬は甘えたい時には、自分が尻尾をふって、駆け寄って来るものだが、プリンは尻尾を振る行為など、はしたないと思っているようだ。「用があるならパパの方から来い」、と悠然と構えて目で私のことを呼びつける。診療所の二階のワンコの部屋(院長室)に行っても、他のワンコは駆け寄って来るがプリンは奥のソファーに座っていて、「早く来い」と私を呼びつける。私がはせ参じる。馬鹿みたいと家族やスタッフに笑われる。
私が夕食をたべていると、早く食事を終わらせてパパの部屋に行こうとプリン語で催促する。食後のコーフィーを飲む暇もない。そのため最近では、コーフィーは自室に運んでのむようになった。プリンが私をしつけているのだ。そのうちに、夕飯を食べることも許されなくなるかもしれない。私の健康を心配してダイエットを強要しているのだ、と考えるのはうがった見方すぎるだろうか。
最も犬らしくないところは、カメラを向けるとポーズをとりカメラ目線をとる事だろう。然も、4回程シャッタ-を切ると、「もう十分でしょう」、という態度で横を向いてしまう。
常に主導権はプリンが握っている。
最後に掲載する写真はプリン幼児期のものだ。この写真のプリンは、私の実姉の疋田昌子(疋田眼科院長・鵠沼海岸)に目つきが悪いと酷評された。私は反論しなかった。私の世代は目上に口答えするものではないと教育されていたからだ。然し、内心ではこのプリンの目つきを理解出来るのは私だけだと優越感に浸っていた。
我が家の一員になって直ぐにプリンは私を支配する機会を狙って、私にこのような視線をおくっていたのだろう。
この写真はタウンページにも掲載されている
2014年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第52話「福沢諭吉先生」
一万円札の表紙の福沢諭吉を知らない日本人はいないと思うが、平成の今となっては福沢諭吉が何を成し遂げた人か、日本にどんな功績を与えた人物かを知らない人も多いだろう。
福沢諭吉:日本の文明開化(幕末から明治初頭)にもっとも功績のあった教育者、思想家、そして慶應義塾の創始者。
私が慶応幼稚舎(幼稚園ではない・小学校)に入学したのは太平洋戦争が始まった1941年のことだ。その後、慶應義塾の一貫教育を受け1959年に慶応医学部を卒業した。更に、インターンを含め慶応系の病院に勤務すること10年、28年間慶應義塾に席をおいたことになる。
私には当然福沢イズムが浸透した。特に幼稚舎というのは特徴の強い小学校で、徹底的に福沢精神を吹き込む教育をする。“福沢先生は偉大な先生でした”と、明けても暮れても教え込まれた。自我の育っていない小学生は、福沢先生を神のように敬うようになる。今では悪い意味で使われることが多いようだが、いわゆる洗脳教育だ。我々の時代、医学部は1学年80人だった。その中で幼稚舎出身者は4人のみ。他校から受験してきた学友達は福沢精神に洗脳されていない。
私が、医学部高学年の頃、慶応大学で福沢先生をめぐってある事件がおこった。経済学部の大学2年生が床屋で、「福沢諭吉って言う奴は小沢栄(俳優)に似ている」、と放言した。その言葉が運の悪いことに隣で頭を刈っていた慶応右翼の教授の耳に入り、教授会の決定でその学生は即刻退学させられた。その慶応大学の対応を時の大評論家の大宅壮一氏が真っ向から非難。慶応大学は、“福沢諭吉を神格化している。退学処分を取り消すべし”、と論評した。大学当局側は、“慶應義塾は私学である。その祖を尊敬していない生徒に教育する義務はない”、として、退学処分をとり消さなかった。その是非をめぐって、若かった私は医学部の同級生と大論争をした。幼稚舎出身者は日常の会話の中でも、本能的に福沢諭吉と呼び捨てにはしない。福沢先生という敬称を無意識につける。まして、“福沢諭吉っていう奴は”、とは口が腐っても言うことはない。私は勿論、大学側の処置を支持した。然し、医学部の学友の多くが、大宅論に賛同したため、口角泡を飛ばして議論した記憶がある。
それから数年たった1959年~1960年、日本中を震撼させた安保闘争(日米安全保障条約に反対する大規模のデモ)が起こった。それに参加しようとする学友と私の間で再び意見が対立した。福沢諭吉原理主義が私の中に再び目覚めたのだ。幕末、政府軍と彰義隊が上野の山で戦っている砲声が響くさなか、福沢先生は経済学の講義をやめず、「塾生の本文は学ぶことにあり、政治、戦いに荷担してはいけない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である」と、塾生を励ました有名な逸話がある。私はその教えをたてにとり、医学を学ぶことの大切さに比べたら、安保闘争などたいした問題ではいと言い切った。学友は政治に無関心の私のことを強く非難した。今になって思い返すと若気のいたりだろう
更に数十年たち、本年5月医学部のクラス会があった。年甲斐もなく再びその学友と議論した。千円札の表紙野口英世(細菌学権威者)と、福沢先生のどちらが日本に貢献したかという子供じみた話題だ。医学の徒として、私も野口英世の偉大さは勿論知っている。然し、私は福沢先生の方が野口英世より10倍偉大だと論じた。根拠は実に明快だ。
御命日(雪池忌)は 1901年2月3日のため、今月の余話に福沢先生にご登場いただいた
2014年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第53話「雪かき」
不可抗力とはいえ、積雪のため臨時休診して、患者さんに御迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。
さて、今回の雪害のお陰で私は思わぬ事に気がついた。「娘達が、いざと言うときは私より実行力がある」、という事だ。
「診療の実力では、私よりも娘達の方が優れて来たかな?」と、うすうす感じていたが、今回の大雪に立ち向かう娘の迫力には驚いた。
雪かきの道具を多数買いそろえ、クリニック、借り駐車場、自宅の周辺、今は使っていない旧診療所の前道路を暗くなる迄雪かきに没頭していた。
バス通りに立ち往生していた車の前の雪を取り除き、その家まで誘導したという。例え若かった頃の私でもそこまで出来なかっただろう。
更に、娘と一緒に雪かきに汗してくれたスタッフ達及びその家族には感謝感激だ。
悪路の中、出勤するだけでも危険なのにクリニックの周辺道路を喜喜(?)として整備してくれたスタッフには頭が下がる思いだ。
「ここには男性がいないから、私達が頑張らなくっちゃ!」、と言ったスタッフの言葉に私はユーモアと無限の優しさを感じた。
いざ鎌倉!という時に、人はその器量を発揮するという。今回の大雪のお陰で、私は娘をみなおした。
古い話だが、私が横濱の山手に住んでいた学生時代、屋敷の一角から不審火が出た。父はその頃、体調不良で我が家の男性は私一人しかいなかった。私は一人で懸命に消火活動をした。消火器など無い時代だ。どうやって火を消したかは覚えてはいないが、ともかく消火に成功した。
この屋敷は複雑な構造をしていて、離れには父方の従兄弟二人(私と同年代)が住んでいた。然し彼等は、私の消火活動を黙って見ていて全く手伝ってくれなかった。
父が、「いざという時に人間の器の差がでるものだ。潮は彼達よりはるかに優れている」、と私を褒めてくれた。幼少時代から、何でも適当にこなして来た私は、親から褒められた事も怒られた事もなかった。生涯に一度だけ父から受けた褒め言葉を今でもはっきり覚えている。
今回の余話は「父から娘への褒め言葉」、「院長からスタッフへの感謝」、の思いをこめて書いた。
2014年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第54話「我が開業奮闘記」
神奈川県医師会報という雑誌がある。月一回発行される医師会の業界誌だ。
その雑誌に新規開業した医師が、「我が開業奮闘記」、という題目で自分の開業当初の模様を書く。写真入りというのが条件のようだ。いわば神奈川県医師会員への自己紹介だ。
私が開業した40数年前はそのような企画はなかった。今更、私が神奈川県医師会に自己紹介をするのもおもはがゆいので、医師会報に投稿するつもりで、この余話に40年前の事を思い出しながら開業当初の事を書く。
我々は、医師国家試験を合格後、医師免許を取得し、大学医局に入局する。フレッシュマンと呼ばれる新人医師は、先輩から研究、実地を仕込まれ、約10年位で一人前の医師となる。そして基礎医学、大学病院を含む勤務医、開業医の道を自分で選択する。生来、人好きであった私は開業医の道を選んだ。
私は1969年11月、藤沢市善行で開業した。私がその地を選んだのは、青春時代を過ごした湘南地方に愛着があった事と、鵠沼海岸で開業している疋田眼科の院長(疋田昌子・私の実姉)のアドバイスによる。資金面、精神面でも、姉の援助があった。今でも姉には深く感謝している。
又、藤沢市医師会にはおおらかな先輩が多く、大きな人の輪に入り込むことが容易だった。
又、その頃の業者さんは人情味が豊かで、医療器具屋、薬品問屋も私の開業が軌道にのるまで集金に来なかった。
そのため、開業当初から私は精神的に余裕を持つことが出来た。
精神的な余裕、それは開業医にとって宝だ。心配事を抱えながら患者さんを診るのでは、診療がおろそかになってしまう。私は開業当初から心穏やかに患者さんに接する事が出来た。
善行団地(当時、2700世帯)が近くにあったためか、開業1週間後には1日に100人以上の患者さんが来院した。当時の神奈川県の支払基金の話では、新規耳鼻咽喉科開業医の伸び率の最高を記録したという。
数年後に設立された藤沢市民病院とも親密な関連を持つ事が出来た。何よりも心強かったのは、東海大学耳鼻咽喉科の三宅教授(故人)の存在だ。三宅教授は私の慶応病院時代からの恩師で、教授自ら私のクリニックで、毎週一回特別診療をして下さった。
一日の患者さんの来院数が300人位に達した頃(1975年)、ある雑誌社の企画で岡田可愛氏(女優)がインタビュ-にみえた。写真でも分かるとおりその頃の私は若かった。三宅教授から、「こういうインタビユ-があるのは、矢野君が耳鼻咽喉科専門医として世間にやっと認められた証拠だ」、と言われて嬉しかったことを昨日のように思い出す。
考えてみれば慶応病院のフレマン時代、耳鼻科医の初歩である綿棒の巻き方を教え下さったのも三宅先生(当時は慶応医学部耳鼻咽喉科講師)だった。それから15年の歳月がたち、初めて専門医とした認められたことになる。長い修行の道のりだった。
その後、無限に続くとも感じられる開業医一筋の生活で、私は“医心貫道”を貫いている。
医心貫道”とは、故武見太郎氏(日本医師会会長)の座右の銘である。
2013年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第55話「ナイチンゲールの手」
30年以上前、私は慶応医学部以来の親友が院長の大病院で、胃のバリューム透視検査を毎年のように受けていた。非常に多忙な友人は、検査が終わると、「大丈夫だよ、又ね!」、と言って挨拶もそこそこに消えてしまう。ところが、ある年の検査の後、今までにない優しい態度で私の傍に来て、「今度は内視鏡をやった方が良いだろう。予定を組んで連絡するよ。」と言いながら玄関まで送ってくれた。医師は患者さんに優しい事が重要な事は分かっているが、彼と私は100年の知己、玄関まで一緒にくるなど只事ではない。彼が胃癌を疑っているなと、私自身勝手に決めてしまった。いつものように電車にのる元気もなくなり、タクシーで帰宅。そのタクシーの運転が考えられない程の無謀運転。胃癌で死ぬより自動車事故で死んだ方がましだと考えた事を鮮明に覚えている。
内視鏡検査当日、胃内視鏡は彼の後輩が専門だというので、その医師におまかせ。勿論、親友も検査室に付き添ってくれた。
今と違う古い時代の内視鏡だった筈だが、以外に簡単にのみこむ事が出来た。検査そのものの肉体的苦痛はなかったが、精神的には恐怖におののき、検査台の脇にいる看護師(当時は看護婦)さんの手を検査の間中握りしめていた。その手を握りしめる事で恐怖心をまぎらわせる事ができた。顔も年齢も忘れてしまったが、その看護師さんの手のぬくろみだけは今でも忘れていない。
検査結果は正常だった。
後年、藤沢市の看護学校で、耳鼻咽喉科学の講師を仰せつかった時、最終講義の締めくくりは、次の言葉と決めていた。
フローレンス・ナイチンゲール(1820.5.12.~1910.8.13)
イギリスの看護師で近代看護教育の母。
医師にとっての「ヒポクラテスの誓い」と同じく、看護師は載帽式や卒業式に、「ナイチンゲールの誓い」をたてる。
2013年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第56話「私とパソコン」
60才台で定年退職した私の友人(男性)は、料理学校、茶道、俳句を学びながら、パソコン教室にも通っている。彼なりに第二の人生を有意義に過ごしている。羨ましい限りだ。
70才台も終わりに近づきながら、尚、現役の医師として夜8時頃まで診療を続けている私には、パソコン教室に通う暇はないし、あの細かい字で書かれている仕様書を夜遅く解読する根気もない。夜、目を酷使する事は翌日の診療にさしつかえる。鼓膜の微細な変化をよみとらねばならない耳鼻科医は、正常以上の視力を確保ことが重要だ。
さて、正確には覚えていないが20年程前、慶応大学湘南キャンバス環境情報学部と、藤沢医師会をネットで結ぼうという研究会があった。私自身もその研究会に出席したのだが、情報環境学部側は医師会員のITについてのあまりの無知ぶりにあきれたようだ。
あくまでも一般論だが、“人間”を相手にしている医師は、IT分野は不得手だ。環境学部と医師会との間に温度差があるのは当然だ。環境学部はそれが専門、我々医師会員は患者さんを診察するのが専門、その道で遅れているからといって卑下することはないだろう。
然し、藤沢医師会も時代の変遷に気づいたのか、医師会員のパソコン購入を積極的に推奨するため、10万円を補助する英断?を下した。それでも私は全くパソコンに興味がなかった。然し、持つべきものは良き友だ。慶応医学部の同級生(脳外科医・故人)が、しぶる私を無視して、私の名前で医師会にパソコン購入を申し込んでしまった。そして、インストラクターとして、T氏を紹介してくれた。それが、私のパソコン修練の第一歩だった。
私は、以前からオアシスのワープローを使用していたので、ローマ字打ちだけは一応習得していた。それが少しは役にたったが、パソコンの複雑な機能など全く理解できなかった。まさに70の手習いだ。その頃は60才台だったかもしれない。そのインストラクターのT氏が、覚えの悪い生徒を手取り足取り丁寧に指導してくれた。出来の悪い生徒ほど教え甲斐があるというが、私のわからない事は電話でも相談にのってくれるし、月一回、自宅にレッスンに来てくれる。T氏は年齢からいうと私の息子世代の人だが、私とは実に良く気があう。良い師に恵まれた私は、医師会の中では恥を欠かない程度にパソコンを覚える事が出来た。
今、写真の編集、構成、文章内への挿入を練習していると不思議な現象が起こった。私が膝の上にいたプリン(愛犬)を撫でていると、プリンが自然にパソコンの中に飛び込んでしまった。これが、その瞬間の写真だ。
この不思議な現象は、T氏も解明できないとう。
プリンと私は超能力的な共依存症のようだ。
後記;私のホーム頁はT氏の構成だ。
2014年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第57話「口の中の不快感」
最近、口腔内の乾燥感、異常感を訴える高齢の患者さんが増えたような気がする。
東京から転居してきた高齢の患者さんが私のクリニックを受診した。口腔内乾燥感のために、東京の複数の大学病院で種々の検査・治療を受けたとのことだ。藤沢でもドクタ―ショピングを続けたが、いかなる治療も効果がなかったようだ。
余話は病気の解説が目的ではないので、シェーグレン症候群、糖尿病、逆流性食道炎、口腔内腫瘍等の本格的疾患には触れない。
以下の解説は高齢の方には失礼かもしれないが、私自身も高齢者の中に含まれるのでお許しいただきたい。
加齢とともに、肌の潤いも失われ、涙の分泌減少はドライアイに、唾液の分泌減少はライマウスの原因になる。その年齢になってくると、歯も悪くなり、歯科の治療、義歯を入れることも多くなる。
当然、歯(義歯も含む)が舌、唇、頬の粘膜を刺激して、口の中の不快感の原因になる。更に、高齢者は、高血圧、心臓病、不眠症等、の薬を内服している方が多い。その種の薬の副作用の項目を読むと、殆どの薬に“口渇”と書いてある。しかし、上記の病気には治療のために内服薬が是非とも必要なのだから、口渇程度の副作用は我慢するより仕方がない。又、歯の治療が必要な方は即刻歯科の治療を受けて頂きたい。
そして、神経質な方ほど、頻回なうがい、舌磨き、トローチ、チューインガム、ノド飴、口腔スプレイを常用する事が多いようだ。この行為は全て口内異常感をひどくする。特に舌苔(舌のコケ)を気にして、舌を磨くのは最悪だ。舌痛の原因になる。
私の経験では、耳鼻科医による鼻・咽頭処置(塩化亜鉛を塗る)・ネブライザー以外は何もしないのが良いようだ。
以上、私の長い臨床経験からの実感だ。
2013年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第58話「4畳半の一生」
10年1日という言葉があるが、私は開業してから約50年、人生の半分以上を開業医として生きて来たことになる。藤沢市という狭い地域、しかも自分のクリニックの診療ユニットの脇(約4畳半の広さ)から離れる事なく生活している私の生活圏は哀しいほど狭い。
私とは対極的に世界を飛び回って事業をしている知人も多い。その内の一人(医師ではない)に、「矢野さんは世界の経済事情をどうお考えですか?」、と質問された事がある。「自分の家の家計簿も知らない私に、世界経済の事など分かるはずはない」、と返事をして失笑されたことがある。然し、それが真実だ。
先日、慶応の医学部の同窓会があり、級友達が近況を語りあった。
同級生(約80人)はその8割近くが大病院に勤務した後、医学部長、大学病院の教授、大病院の院長、大学関連病院の医長等の要職を経て、現在は悠々自適の生活をしている者が多い。同級生で開業医生活の道を選んだのは数人しかいない。その中でも開業当初と同じペースで黙々と診療を続けているのは私一人だけのようだ。
学友の一人は、アメリカの病院で研修した後、戦禍の中近東で診療した経験もあるという。
又、学生時代同じグループだったY君は、某大病院で名外科医としての名声を博した後、日本病院協会会長となり、今では、健康医療戦略室長(内閣官房内)として医政でも活躍している。
更に加えるなら、同級生ではないが慶応医学部出身で最も広い世界を見ているのは、宇宙飛行士の向井千秋氏だろう。何しろ向井氏は1984年に無限に広がる宇宙から地球をみたのだ。
作家の司馬遼太郎氏は宇宙飛行士をうらやむ気持ちを、“井戸にひそむ痩せ蛙のひがみ根性”、と自虐的に述べている。井戸ではないが私の世界も4畳半でしかない。
然し、“4畳半の生活圏”にも、開業医としての喜びはある。多分、何人かの患者さんは私の存在を必要として、感謝して下さっているだろう。そう言い聞かして自分なりに充実した平凡な日々を送っている。今後も、生ある限り矢野耳鼻咽喉科という名の「テント」で同じ生活を続けるだろう。そして、そのテントは娘二人が継承し、存続される事が約束されている。
アラブの格言(曾野綾子氏著)より引用
(今回の余話には、二カ所に文豪の言を拝借した)
2014年8月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第59話「軍用犬」
爆発的な高視聴率をあげているNHK の連続テレビ小説“花子とアン”で、軍用犬の話が語られている。
私も、軍用犬で泣かされた事を思い出した。小学生の頃、東京の洗足に住んでいた我が家では、犬を2匹飼っていた。犬種はスピッツとサモエドの2匹だ。スピッツの名はチル、サモエドはナナと名付けられていた。ナナは文豪ゾラの“娼婦ナナ”から命名したという。多分、父親の考えだろう。
チルは小型犬だったために家の中で、ナナは大型犬だったので、庭で飼われていた。外犬のナナがある日突然姿を消した。その理由は私には知らされなかった。両親は最後まで明言しなかったが、姉がナナの悲劇をうすうす知っていた。大型犬のサモエドは、その毛並みの豊かさが仇をなし、国策によって軍隊に強制提供させられたらしい。毛皮を剥いで軍用に使用するために、肉は戦地で食料にされたのだろう。スピッツの方は内犬だったために難を免れた。
そして、1945年の東京大空襲。当時、私は鵠沼の別荘に疎開していたので空襲には遭わなかった。東京に残留していた両親、学校の都合で東京に居た姉の3人は丸焼けになった家から、洗足池に命からがら逃げたという。家族は無事だったが、スピッツは行方不明。多分焼死したのだろう。後日わかった事だが、我が家には焼夷弾が29発落ちていた。戦争の恐ろしさだ。
その頃、我が家では猫も飼っていた。何しろ古い話なので、何故その猫が我が家にいたのかの記憶はない。姉達に聞いても、迷い込んで来た説、姉の一人かがもらってきた説があり、はっきりした事は分からない。私のおぼろげな記憶、姉達の話でも立派な三毛猫だったような気がする。
その猫が“ヘンメンキョウ”という不思議な名前で呼ばれていた事だけを強く記憶している。
“ヘンメンキョウ”という名前の由来も定かではないが、変わった事の好きな父が所有していたインド軍歌の歌詞からとったらしい。
当時のインドは英国の植民地で日本の敵国だった。
ヤーゴ ヤゴ ヤゴヘンメンキョウ ウヘンメンキョウ
私もその歌の一節だけは覚えているが、そのレコードも戦災で焼失してしまったので確かめようもない。そのヘンメンキョウも空襲の後は行方不明。
私の記憶にはないのだが、姉達の話ではヘンメンキョウとは別の仔猫がその頃、玄関先に棄てられていたとの事だ。戦争がたけなわとなり米軍の空襲が始まった為に、それまで居てくれたお手伝いさんが里に帰ってしまった。その際、その捨て猫を自分の田舎に連れ帰った。お手伝いさんが、田舎に連れ帰った捨て猫だけは無事だった。
棄てられていた猫は命をながらえ、飼われていた猫犬は無残にも焼死、サモエドは豊かな毛皮故に軍用のため皮を剥がれて殺された。
人間、動物共に、その運命は計りしれない。
2014年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第60話「理想的なクリニック」
最初から自慢するようで気が引けるが、私は自分なりに理想的な耳鼻咽喉科クリニックを完成して日々の診療を行っている。それはやがて、耳鼻咽喉科専門医である娘二人に継承されることになっている。限られた資金で作らねばならなかった建物の外観、狭さについては触れないことにする。
さて、一つの事業――私の場合は医療――を作り上げ、健全に継続して行くためには、スタッフと良い関係を築く事が重要だ。人柄の良い明るいスタッフ達に囲まれて、日々の診療を続けられる私はつくづく幸福だと思う。
私は今迄の生涯、数多くの貴重な人との出会いに恵まれて来た。
先ず、一番の恩人といえば、三宅浩郷先生(元東海大学耳鼻咽喉科教授・故人)をあげねばならない。三宅教授の思い出については、いずれ、院長余話で詳しくご紹介するつもりだ。
そして、三宅教授の後任の坂井真教授は慶応大学耳鼻咽喉科教室に入局(私の同世代)し、アメリカに留学した「耳科学」の大家で、現在は茅ヶ崎中央病院の院長・耳鼻咽喉科医長の要職を兼務している。副院長ゆかりは、東海大学耳鼻咽喉科在籍中は三宅教授から引き続き坂井教授の教えを受けた。更に坂井教授の次に位置した新川敦助教授も私のところで診療をして、私のクリニックの診療内容を向上して下さった。現在、新川先生は東海大学を退職して、新川クリニックの経営者として活躍しておいでだ。そのクリニックに、私の次女さゆりが勤務している。そして、レーザー治療を習得して当院で週一回レーザー治療を行っている。
普通のクリニックでは、耳鼻咽喉科的手術、重症患者さんに対応できない事がある。重症患者さんの救急搬送先に、藤沢市民病院、茅ヶ崎中央病院、東海大学病院、北里大学病院、湘南鎌倉病院をお願いしている。あまり美しい言葉ではないが、医師の世界でも「人脈」が重要だ。いざと言う時に慌てず患者さんに対処出来ることが、当院の強みと言えるだろう。安全な受け皿を用意する事は、我々開業医にとっては欠かせない条件だし、患者さんの安全を担保できる。
そして、当院の強みの第一は、常時二人の医師が診療にあたっていることだろう。二人で診療していると、多数の患者さんで混雑している時でも、あせる事なく患者さんに対応する事ができる。
最近、診療に“アキタ”から診療所を閉めるという医師がいるという。病気なら仕方ないが、“アキタから診療をやめる”など、私には考えられない。
私は、終生耳鼻科医療を続けるだろう。診療に自信がある事も事実だが、酒飲みが酒を止められないように、診療しなしでは生きていられない。念のため申し上げるが私はビール一杯も飲めない下戸だ。
「終生医療を続ける光栄は最上のものと信ずる」、という私の人生観にぴたり当てはまる文言を曾野綾子氏のエッセイの中から見つけた。
然し私には、遊びの部分が抜けているのが残念だ。“銀ブラ”するのが唯一の遊び、とはいささか寂しい。
(銀ブラとは、銀座をブラブラする事ではなく、銀座でブラジルコーヒーを飲む事だというが、真偽の程は知らない。)
2014年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第61話「藤沢ドクターズ(藤沢市医師会ゴルフ部)」
藤沢市医師会には、俳句会、社交ダンス部、将棋クラブ会、囲碁部会、テニス部、ボウリング部、釣り部、ゴルフ部(藤沢ドクターズ)等の同好会がある。
私が所属しているゴルフ部は会員数約50人の大所帯で、生誕約60年を迎える最も歴史の深い同好会だ。
私は20年間、その会長(二代目)をつとめ、約10年前、長谷章先生(長谷内科の院長)に、その役を譲った。私が会長を降りた理由は実に明快で、私に白髪が目立つようになったからだ。ゴルフ部は毎月一回、日曜日(祭日も含む)に近隣のゴルフ場でコンペを行っている。ドクターズは実に仲の良い集団で、ゴルフを楽しむと同時に、プレイ後の懇親会を重要視している。その懇親会にはで各科の医師が一堂にそろい胸襟を開いて語り合う。医師会の情報、各科の専門知識、医学書には書かれていない経験談を披露しあえる情報交換会としての役割は重要だ。
さて、私はドクターズに4~5年間、無欠席で連続出場するという快挙を続けていたが、本年の3月に股関節の手術を受けたために、その記録は頓挫した。半年の休養後、9月から復帰した。その際にゴルフ部から、復帰祝いとして頂いたのが愛犬プリンの置物だ。
私が、あくまでも本気で接してきたのは診療だけで、他の事は片手間のひまつぶしだった、と言えばそれまでだがドクターズを通じて医師会員の交流の輪を広げる事には真剣だった。交流の場を広げるといっても大それた事をするわけではない。一例をあげると、昼食でサンマをたべた同伴競技者(新規加入の内科医)が、小骨をのどに引っかけた。ゴルフ場から私のクリニックに直行し直ぐにその骨をとった。その内科医とは以後、親交が深くなり診療の面で緊密に連携しあい互いの医療内容を充実させている。
サンマで思い出したが、あるゴルフ場で知り合った真打ちの落語家の声ガレを私が治療した事がある。数回の通院で彼の声ガレは完治した。通院最後の日、待合室の患者さんの前で、“目黒のサンマ”という古典落語を長講一席。そして、素晴らしい“落ち”迄つけて下さった。
追記;目黒のサンマ
江戸時代、殿様が目黒(当時は田舎)付近を馬駈けしている途中、庶民的に調理したサンマに舌鼓をうったという古典落語
2014年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第62話「医療の守備範囲」
“総合診療専門医”を育成する構想が進められるという。
総合診療専門医(以下、総合医と略記する)とは、患者さんの年齢、性別、病気の種類を問わず幅広く診断、治療にあたる医師のことだ。わかりやすくいえば家庭医がそれに近いと思う。
耳鼻咽喉科専門医である私は、この総合医の意義そのものに疑問を感じる。総合医は医療における、“何でも屋”と言葉を置きかえることもできる。診療に聴診器1本あれば充分だった昔と違い、現在の複雑に高度化した先進医療界の中で、何でもできる医師など育つはずはない。厳しい言葉を投げかければ、“何事もできる医師とは、何事も中途半端にしかできない医師”、と言い換えることもできる。
自分のクリニックの診療にのみ心血を注いでいる私は、総合医の詳しい具体案など詳しくは知らないが、何かそこに落とし穴があるような気がする。その落とし穴に、患者さんと医師の両者が落ちこんで、痛み分けになるような気がしてならない。危惧であることを望む。
幸福なことに、藤沢市内には優秀な各科専門医が存在し、そして藤沢市民病院もある。各々が連結を緊密にとれば最高級の医療を行う事ができる。
緊密な連携といえば、医療はチームプレイを重視する団体競技と似ている。かりに野球を例にとる。野球もベ-スボ-ルと進化して、ナインの連携プレイが重要視されるようになった。以前テレビのト-クショ-で、「ジャイアンツのサード長島選手が、全盛時代にショ-トよりもセカンドベ-スよりのゴロをとり、1塁で刺したとことが3回あった」、と話していた。長島のような天才だからできたのだろう。
ショ-的要素を必要とするプロスポ-ツと異なり、医療にはスタンドプレイは危険だ。
各医師が自分の守備範囲(専門分野)を堅実に守り、自分の専門外は、その分野の専門医と緊密に連携する事が、日常医療の充実につながると確信する。耳鼻科咽喉科医である私は、小児科医、内科医、脳神経外科医との緊密な連携を特に重要視している。
あえて言う。“何でもあつかう医師は、何もあつかえない医師だ。”
曾野綾子氏のエッセイから引用すると――
2014年12月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第63話「プリンチャマ」
さて、十年一日と言う言葉があるが、私は藤沢で開業して以来、五十年一日の如き生活を送っている。診療は午前9時~午後8時迄、傘寿を迎えてもなお開業当初と同じ時間帯の診療を続けているのは、私が所属している藤沢市医師会では私だけのようだ。それが出来るのも、平和な家庭、優しいスタッフに囲まれているからだろう。
これからご紹介する愛犬プリン(パピヨン)の存在も私の癒しの根源として欠かせない。今やプリンは完全に家族の一員だ。
何でも“適当に”、ということが人生に大切だという言葉を何かの本で読んだが、愛犬プリンへの愛情は適当の範囲を大きく逸脱したようだ。家族やスタッフから、常規を逸していると批判されている。
プリンも私を完全に掌握したと自信をもったのか、最近では、愛犬、というより愛人のようにふるまっている。私も24時間一緒にじゃれあっていたいのだが、私には診察という義務がある。まさか、ダッコしながら患者さんに接するわけにいかない。私が診察している間、二階の院長室にプリンを放置しておくのが可愛そうでならなかった。然し、私は良い人との出会いに恵まれているのか、犬好きの人に知り合って、院長室でプリンの世話をお願いする契約をした。もう、10年以上プリンは母親のようにその人になついている。その育ての親との契約は、後40年(4年ではない)残っているから安心だ。しかし、夜、自宅に帰ってからが大変だ。私が食事を始めると、独特のプリン語で叫びだす。“早く食事をやめて、パパの部屋に行こう”、との催促だ。その叫び声がだんだんと大きくなって来たために、私は5分で夕食を終わらせなければならない。ゆっくり時間をかけて、食事を味わうことなど不可能だ。食後のコーヒーもぬるくして流し込みだ。そして、自室でプリンを撫で続けなければならない。
プリンは完全に私の可愛いストーカーだ。
朝日新聞の川柳に、
というのが載っていたが、まさに私も同感だ。
何故、プリンと私が犬と人間という異なる種に生まれたのか、私はプリンを見ながら涙を流してしまう。
シェクスピアの名言を拝借すれば、
2015年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第64話「ハクビシン」
ノンフィクション作家久田恵氏の「ハクビシン君とご対面」と題するエッセイを、平成24年12月14日の朝日新聞で目にした。同氏が夕暮れの住宅街で、「ハクビシンの電線渡り」を目撃し、“アレハ、ナンダ!”と、あっけにとられて眺めていた様子だ。私とハクビシンの出会いはそんなのんきな顛末ではない。
3年程前、夜になると、我が家の天井裏を激しく走りまわる音がする。
ケタタマシイ音だ。初めのうちは大きなネズミでもいるのかなと思っていたが、音があまりに大きいので心配になってきた。懇意にしている電気屋さんが屋根裏に入り調べてくれた。ハクビシンの糞が大量に落ちていて、壁に孔が開いているという。多分、ハクビシンが天井裏に出入りしているのだろうとの指摘だ。ハクビシンが屋根裏の電線を嚙むと漏電する危険がある。早く駆除する必要があるとの助言だ。
私は、ハクビシンという動物を知らなかった。そこでゆかり副院長がハクビシンについて調べた。
ハクビシン(白鼻芯・日本に唯一生息する外来種のジャコウネコ科の哺乳類で、名前の様に鼻筋に白い線があるのが特徴)は、夜行性で性格がどう猛。最近、西鎌倉あたりに大量に生息して、藤沢周辺にも移動してきているという。ハクビシンを捕獲する専門業者もいるが、先ず、市役所に相談するようにとのアドバイスを受け、藤沢市役所に電話して捕獲用の罠(大きい鼠捕りのような物)を数個借りて庭に設置した。最初、餌として仕掛けた果物にはかからなかったが、1週間後にキャラメルに変えたら捕獲に大成功。
こわごわ、檻の中にいるハクビシンにカメラを向けたら、歯をむき出して威嚇された。 こんな動物が屋根裏から居間に入って来たら我が家の愛犬などひとたまりもなく殺されてしまうだろう。胸をなでおろした。
直ぐに市役所(環境部 環境保全課)から係の人がとりに来てくれた。市役所の親切な応対には感謝する。
ところで世間には多様な人がいる。藤沢医師会にハクビシンを赤ちゃんの頃からペットにして可愛がっている女医さんがいる。驚きだ。
又、やはり医師会の友人が、道に倒れていた子狸を自宅に連れ帰り、介抱している内に、狸が可愛くなり同じ布団の中に入れて寝るようになったという。
狸の恩返しという古典落語がある。博徒に命を助けられた子狸が恩返しのために、サイコロに化けて恩人を博打で儲けさせる話だ。その医師に助けられた狸の恩返しは、命の恩人へ疥癬(皮膚病)を感染させたことだった。ひどい狸の恩返しだ。医師会で大笑いした。
2015年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第65話「人工股関節」
私は昨年の3月左股関節の手術を受けた。常識的に言えば、自分が手術を受けた事など公表すべきではないだろう。
然し、3週間の入院期間も含め、約4週間の不在(副院長は平常通り診療)中、ホームページ、玄関先、待合室に公表してあったので、同じ病で悩む方のたに、そのいきさつを書く。
1年前から左側股関節に違和感をいだいて私は、藤沢市内のある整形外科医から、人工関節置換術の手術をうけるべきだと指摘された。
当初は藤沢市民病院に手術をお願いしようかと思ったが、考えてみると、手術直後は車椅子で病院の中を移動しなければならない。市民病院内には、私のかかりつけの患者さん、各科の医師を含め、スタッフ達にも知り合いが多い。
院内の廊下ですれ違う度に、いちいち経緯を説明するのは、あまりにおっくうだ。
そこで、東京の病院で手術を受けることにした。術者は、慶応医学部出身の同門で、股関節の手術では定評のある整形外科医だ。
そして、3週間の入院生活が始まった。家族は手術の危険を心配したらしいが、不思議な事に私に不安感はなかった。術者が優れた専門医であることを信じていたのと、命に関わる部位の手術でないからだろう。
さて、手術時間は麻酔が覚めるまで、約3時間位であったろうか。詳しいことは覚えていない。
私が恐れていたのは手術後の痛みだ。痛みに対しては、腰椎に鎮痛用の針をさして、定期的に鎮痛剤を注入してあるのだが、術後1日で除去された。主治医にもう2から3日そのままにしておくように頼んだが、感染の怖れがあるからと拒絶された。
私は痛みに備えて、自分のクリニックから山のように、強力な鎮痛剤を持ち込み、看護師さんの目の届かぬ所に隠し持っていた。然し手術後、全く痛みを感じなかったので薬をのむ必用がなかった。
尚、自己負担金が260円の入院食が美味しいはずはない。その事は入院する前から憂鬱だった。然し、私が受けた手術は消化器系でなかったので、何を食べても自由だった。自宅からの差し入れ、友人からのお見舞いのご馳走など、美味しい物の食べ放題。家にいる時よりも贅沢だったかも知れない。
又、長年の医師としての生活から得た経験で、看護師さん、他の職種の方々とのお付き合いの仕方にもなれている。そのせいか入院中、嫌な思いをしたことは一回もなかった。三週間の入院生活は、私にとって初めての楽しい休息であったのかもしれない。愛するプリンが見舞いに来てくれた時は不覚にも涙を流してしまった。プリンがどうやって東京の病院を探し当てたのかは未だに不明だ。
以下は私の自慢話――
全身麻酔がさめる直前の意識朦朧としている時に、「胸のレントゲン!胸のレントゲン!と、私が叫び続けていた」、との事を翌日、看護師さんから伺った。手術室では、私が呼吸を苦しがっているのかと心配したらしい。それは誤解だ。実は入院する前夜、私が最後に診察した患者さんは、頑固な咳に悩まされていた。胸部の精密検査の必要性を説き、その手配をしたが、結果を聞かずに自分が入院してしまった。その患者さんのレントゲン検査の結果を朧気な意識下でも心配していため、「胸のレントゲン!」と、絶叫したらしい。自画自賛になるが、自分の医師としてのプロ根性に賞賛を送りたい。
2015年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第66話「花粉症」
新漢字辞典:花粉疎開
杉花粉飛散期に、沖縄県、北海道に滞在する事。
今年は、杉花粉の飛散量が昨年の約三倍だという。杉花粉症の患者さんにとっては、辛い春の到来だ。私自身も今年、軽症だが杉花粉を発病したらしい。外出すると鼻と目がぐずぐずする。患者さんのつらさがわかった。 杉花粉症という概念を初めて提唱したのは、1963年に斉藤洋三教授(東京医科大学)だ。春、鼻目に集中しておこるアレルギー症状に着目し、研究の結果、解明されたという。花粉症は、カモガヤ、ブタクサ等によってもおこるが、杉花粉症がその80%をしめる。又、日本人の約30%が杉花粉症を発症している。まさに国民病だ。 花粉症の初発は、以前は30才前後に多いといわれていたが、今では、初発年齢層の幅が広がり、乳幼児から、80才以上の高齢者に迄、及ぶという。 海外旅行から帰国した人が、成田について、飛行機のドアが開かれた途端にくしゃみ発作がおこるのは有名だ。 先日、沖縄の大学を卒業して、就活に成功し、藤沢に戻ってきた患者さんが、花粉症を数年ぶりにぶりかえし、沖縄で就職すれば良かったと嘆いていた。私は、近々今より良い治療が行われるからとなぐさめた。 今は、内服薬、点鼻薬、点眼薬による治療が主流をしめている。
又、レーザー治療も有効だが、花粉症が発症する2ヶ月ほど前に施行する必用がある。私のホーム頁の病気の項を参照して頂きたい。最近話題の口腔内減感作療法については来院の上、ご相談頂きたい。
猿にも花粉症があることは、以前から知られていたが、犬にも花粉症があるという。犬が花粉症にかかると、毛が抜けるとのことだが、春の暖かさ故に、犬の毛が生え替わるのではなかろうか。私は疑問に思う。
今年から、自分も花粉症となり、患者さんの苦しみを自ら知った事は、私の開業医としての幅を広げた事になる。
2015年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第67話「三田文学」
本年1月、三田文学(慶応文学科・創刊105年・慶応大学文学部で刊行された文芸雑誌で、日本国で一番長く存続している文芸慶応大学雑誌 )からデジタル版への収録許可のお願いという手紙が届いた。私の著作が雄松堂書店でデジタル版に収録されるという内容だ。私の“余話”が版を重ねたので、その価値を三田文学が認めてくれたのかと思い小躍りしたが、全くの勘違いだった。三田文学に電話で問い合わせた所、昭和18年(1943年)に私が小学生の時に書いた作文を三田文学がとりあげてくださったのだ。
何故、今頃?――私にはわからない。自分の書いた作文だからここに掲載しても盗用にはならないだろう。作文は長文なので略記する。
三年 矢野潮
塾出身のお兄様方は南ですか北ですか。はげしい戦いの後でお読みになり、少しでもお喜びくださるように、僕は一生懸命で書きました。
僕は“お書き初め”を持って学校に行きました。お兄様はこのお書き初めの題があてられますか。「一億進軍」です。一億進軍して米英をやってける勇ましいでしょう。一億といえば日本人全体のことです。お兄様方は兵隊さんとして進軍していますが、僕達子供はどう進軍しているのでしょうか。生まれたての赤ちゃんは進軍していないでしょう。お父様に質問すると、大笑いされました。「子供の進軍は一生懸命で勉強し、よく遊び、丈夫に育つことだ。赤ちゃんの進軍はたくさんおっぱいを飲んで、早く大きくなることだ。」と、おっしゃいました。僕は、「なんだ、そんなら僕はとっくの昔から進軍していらあ。」と、安心しました。僕はとても丈夫です。勉強もよくするし、遊ぶことは、野球、水泳など、最大とくいです。
お父様は突然、「一億進軍より、十億進軍とするのだった。日本人はもちろんのこと、シナ、タイ、ビルマ人等全アジア民族の総進軍だ、十億の総進軍だ」とおっしゃいました。
僕の来年の“お書き初め”は、「十億総進軍」とします。
ではお体をお大切に、ごふんとうをお願いいたします。
以上、三田文学から送られて来た大昔の作文を略記したが、私には全く記憶がないし、父親の手伝いが見え見えで恥ずかしい。又、いくら戦時色豊かなこの時代でも、アメリカ帰りのアメリカかぶれの父親がかなり無理をして作った作文のような気がする。
この作文を書いた昭和18年はNHKの朝ドラ「マッサン・2月23日放映」、学徒出陣も同じ年だ。日本中が戦時色にそまっていたが、未だ国内には空襲などの戦禍は及んでいなかった。挿入した私の写真は野球を校庭でプレイしているところだが、何故、敵国のスポーツを学校の校庭で行えたのか、今となっては不思議だ。職業野球(現在のプロ野球)もその頃は、既に国策で中断していたと思う。
「欲しがりません勝つまでは」が、合い言葉の時代だ。
その2年後(70年前)、米軍の空襲が始まり、東京で約10万人の人が亡くなった。私の東京の家も焼夷弾で焼失している。その悲劇さえ、自分の作文を読み返すまで、すっかり忘れていた。
今の若い人は、アメリカと日本が同盟してロシアと戦ったのが第二次大戦だと思い込んでいる人が多いと聞く。戦争の語り部が減ったのか原因だろうが、あの悲惨な戦争の事など忘れて、国民全体が平和ぼけしても、戦争などないほうが良いに決まっている。
2015年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第68話「果物アレルギー」
「たった一の林檎が人の命を奪った!」
私が慶応医学部の学生時代、皮膚科学教授が食物アレルギーのおそろしさを強調なさった講義の一節だ。
さて、開業して50年近く地域密着型開業医として患者さんに接していると、当然おなじみの患者さんがふえてくる。
「又、見えたの、元気?」 「元気よ。先生も元気そうね。ほっとしたわ。」 「元気ならこんな所に来る必要ないじゃない」 「先生の意地悪、いつもの薬を欲しいから来たのよ」
このわけの解らない会話でスタートする患者さんは、私が開業当初から診ている重症の杉花粉症の女性だ。
私は密かに、「花粉の女王」、と名付けている。当初、杉花粉飛散期のその患者さんの鼻粘膜の浮腫(むくみ)状態は類を見ぬほどにひどかった。然し、その方も年齢を重ねるにつれ、年ごとに花粉症状が軽くなっていった。年のせいで、「花粉にも反応しなくなった、喜ばしい事だ」、と二人で笑いあっている。
“然し、一難去って、又、一難”、数年前からその方に果物アレルギーが発症した。
果物:リンゴ、モモ、トマト、メロン、スイカ等――。
この方は、上記の果物を食べると、口腔内のかゆみ、違和感がおこるという。典型的な口腔アレルギー症候群だ。年の功か予知能力が発達して、危ない食べ物は 自然に避けるようになり大事にいたった事はない。この方は別にして、体にあわない食べ物(果物、魚類、ソバ等)を食べて、全身の発疹(蕁麻疹)、唇、瞼の むくみ等を起こす事がある。このむくみの事をクインケ氏浮腫という。唇や瞼のむくみは半日位で自然に消えるから、患者さんは驚くが心配はない。
然し、この発作がノドの奥や、喉頭におこると呼吸が苦しくなりショック症状を起こす事がある。放置すると、呼吸停止から死亡する危険もある。私のクリニックでも二人程、入院設備のある病院に救急搬送した経験がある。
果物は、ケーキの中にひそかに入っていたり、ソバ粉がうどんの中にもまっている事もある。うどんを製造している時にソバ粉が混入するのだそうだ。学校給食で、ソバ類を食べた生徒が死亡した話は有名だ。給食を供する学校側の注意も必要だが。両親に弁当を持たせる位の配慮を求とめることも必要だろう。
アレルギー発作は食べ物だけではなく、薬品、草花でもおこるのは一般に知られている。最近では、ちゃどくが有名だ。
学生時代の皮膚科学の講義で、“一つの林檎”に続いて記憶に強く残っているのは漆カブレだ。最近、漆カブレがあまり聞かれないのは、漆の茶器の使用頻度が減ったためだろう。
然し、偶然の事だがNHKの朝ドラ“まれ”で漆カブレの話がとりあげられているのを見て、皮膚科学教授の講義を思い出した。精神的因子(思い込み)が、皮膚のアレルギー(アトピ-等)に強く関与している。その一例として、漆カブレの患者さんに目隠しをして、「漆の木でない事」を思い込ませてから、漆の木に触れさせてもカブレず、目隠しをしたまま、「今度はウルシの木だ」、と信じさせて、別種の木に触れさせると見事にカブレルという講義内容だ。その真似をして、私の同級生の皮膚科医が新人医師の頃、患者さんに目隠をして、漆の茶器に触れさせたら、ひどくかぶれて恨まれたという。
私がその皮膚科医をからかった言葉
付録:冒頭の“一つの林檎”は林檎ではない。有名パティシエが林檎の様に作ったケーキだ。林檎の成分は入っていない。
“一つの林檎”で、林檎アレルギーの人が発作を起こすかどうかは実験していないので残念ながら不明。
朝ドラの主人公のまれが、“一つの林檎”をつくれるような一流のパティシエになれるかどうか楽しみだ
2015年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第69話「水泳教室」
夏が近づくと、耳鼻科医は“水泳許可?・不許可?”の相談を受ける事が多い。中耳炎と水泳の関係については病気の説明の所に詳しく述べてあるのでそこを参照していただきたい。私は、中耳炎の急性期以外は原則として許可するようにしている。水泳は幼い時の方が、早く覚えられるからだ。そして、“泳げる”、ということもその人の教養の一つだと思う。
水泳教室も盛んだが、私は“泳ぎの覚え方”、に一家言をもっている。子供の頃にさんざん努力した経験があるからだ。
私の父はよほど暇人だったのだろう。5才の私に泳ぎを仕込む事に熱中していた。
最初に教えられたのは顔を水につけての呼吸の仕方だ。その頃はプールで自由に泳ぐ習慣がなかった。泳ぎに行くといえば海だ。当然、季節は夏に限られる。次の夏にそなえて、冬の間に水泳の呼吸方法をしこまれた。洗面器にぬるま湯を入れ、それに顔をつけて呼吸の稽古だ。口からすって鼻からはく。くり返しくり返し練習した。そして、顔についている水を拭く事は禁止だ。そして、息を吸うために顔をあげるのは右側と決められていた。その理由は後で書く。
次に、部屋の中に置かれた小さなベンチの上にうつぶせになり、その上でクロールのホームの練習だ。父も水泳が特に得意だったわけではないが、水泳の本を読み研究したらしい。私が今でも覚えているのは、父が水泳の本を読みふけっていた事だ。著者は誰だか覚えていないが、青色の表紙で私にとってもなつかしい本だ。その本に出ていた遊佐正憲選手(1936年ベルリンオリンピック・自由形銀メタリスト)のクロールの分解写真の真似をベンチの上で何回も何回もくりかえし教え込まれた。いわゆる畳の上の水練だ。
そして待望の夏、いさんで鵠沼海岸に行った。呼吸とフォームは出来ている。後は水に浮くかどうかだ。最初、私のお腹の下に手を当てていた父が、「手をはなすが、体に力を入れるな。必ず浮くから自分を信じろ!」次の瞬間、私は水上に浮かんでいた。何と、簡単なことだったろう。
後は泳げる距離を延ばすだけだ。呼吸する時に、父は左に顔をあげるので私が右にあげれば、並んで泳ぐ時に互いの顔を見ることが出来るという作戦だったようだ。
父の水泳に対する興味は競泳のスピードではなく、きれいなフォームで泳ぐことにのみ価値観を持っていたらしい。
又、その頃の鵠沼海岸の海は、かなり沖まで泳いで行っても海底の貝が見える程、海水が澄んでいた。
然し、私もいつまでも子供ではない。当然、数年後には友達と遊ぶ方が楽しくなった。いわゆる親離れだ。後になって、父がすごく寂しがっていた という事を母から聞いた。
そして、世代が変わり、ゆかり副院長が小学校に入った頃、ゆかりに水泳を教えることになった。私は喜びいさんで藤沢のプールで自信満々クロールのフォームを娘に指導した。その時、プールサイドで、にやにやしながらその光景を見ていた若いインストラクターが、「そんなフォームを教えるのは良くない。そのフォームは戦時中のものだ。敵の狙撃兵から身をまもる泳ぎ方だ。矢野さんはその泳ぎ方を海軍で教わったのか?」
私はそんな年ではない。然し時代と共に水泳のフォームも大きく変わった事を知らなかった。
プライドは少し傷ついたが、気をとりなおし専門家にまかせた。
考えてみると、父には水泳を本で研究する暇があった。私は開業当初の事で極めて多忙。水泳の本を読む時間などなかった。今度は私から子離れした。
2015年7月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第70話「耳そうじの危険」
いよいよ夏休み、海水浴のシーズンです。
今回は、スイミングの敵、耳掃除の危険について詳しく解説します。
当院のような耳鼻科専門クリニックには、耳そうじをしてケガをし患者さんが毎日のように診察にみえる。
その度に思うのだが、耳そうじのケガで通院するほど無駄なことはない。耳の入り口(外耳道)だけなら、大したことではないが、鼓膜に孔をあけたら大変だ。上記の写真のように鼓膜に大きな孔をあけてしまうと、ふさがる迄に数ヶ月かかる。1年以上たってもふさがらない時は、鼓膜再生の手術が必用になる。
大人の場合は自分自身、子供さんの時はご両親が犯人の事が多い。耳カキ、綿棒ともに凶器となる。
又、悪意あるケンカは別として、両親のお子さんへの愛の鞭(頬への平手打ち)は非常に危険だ。鼓膜への空気の圧迫で、下の写真のような綺麗の鼓膜が一瞬に血だらけになり孔があいてしまう。しつけのために、子供さんを叩くならお尻にしてほしい。然し、お尻を叩くことも最近では虐待と解釈されるらしい。
以前、「耳そうじをする暇があったら、台所の掃除でもしていなさい」、と母親に注意したら、台所は毎日きれいに掃除していますと怒られた事がある。それ以後、この文言は禁句にした。
“両親が耳そうじする時は、ケガをさせないように気をつけてやりましょう”という、耳鼻科医がいるが、私は絶対に反対だ。耳は聞くもので触るものではない。
耳垢を取りやすいグッヅ等の宣伝も良くない。
長い耳鼻科開業医の生活で、一番すごい経験をしたのは、耳掃除をするために、成人女性が掃除機を直接自分の耳に当てて、耳垢と共に鼓膜も吸い取った症例だろう。こうなると、症例というより事件発生だ。
又、耳の中に入ったシャワーの水を乾かそうとして、高温にしたドライヤーを耳に直接当ててヤケドをした人もある。
耳掃除の事故は枚挙に限りない。
三ヶ月から半年に一回、耳鼻科医を受診し、専門医が耳垢をとり,同時に鼓膜をチェックするのが重要だ。特に、乳幼児には予期せぬ滲出性中耳炎等が発見されることも希ではない。
2015年8月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第71話「プリンへの謝罪」
最愛のプリンへ謝罪するためにこの一文を書いた。
今年の7月初め、プリンはお尻に出来た脂肪種の手術を受けた。3年ほど前に、歯の手術を受けた時と同じ日大獣医病院だ。
“入院は3日間、全身麻酔”、私はプリンの安否が心配でならなかった。それこそ眠れぬ3日間だ。
退院当日とその翌日はさすがにプリンも元気がなかったが、その後、予期せぬ変化がプリンにおこった。“おすましプリン”が、すっかり子犬のようになり、いたずらっ子になってしまったのだ。
クリニックの二階の院長室をスキップで駆け回り、わざと椅子の高い所にのぼって、飛び降りそうなポーズをとり、“危ないぞ”といって我々をおどかして、ニタニタしている。
今、考えると、よほど手術前は気分が悪かったのだろう。冒頭にかかげたプリンの写真を見直すと、つらさを訴えるプリンの表情がうかがえる。
私達医師は専門分野にとらわれず、患者さんの雰囲気から、全身状態をよみとらねばならない。私にはその自信があった。
例えば、冬季インフルエンザの流行期に発熱患者さんを診察する時、医師の義務としてインフルエンザテストを必ず行うが、患者さんの表情から、テストしなくてもインフルエンザかどうかを予想することができる。
又、インフルエンザとは関係なく、患者さんの皮膚に手をふれただけで、発熱しているかどうか検温器と同じくらい正確に当てることが出来る。
その私が、これほどベッタリと愛しているプリンの苦痛に気付かなかった。今となっては信じられない程のうかつさだ。
プリンは家族の中でトップの座を占めている。
ご免なさいプリン
教訓
医師は、自分の家族の病気を診てはならない。
2015年9月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第72話「耳管開放症」
耳管開放症という病気がある。患者さんにとっては苦痛の強い病気だが、比較的に希な疾患なので見逃されやすい。
鼻腔から中耳に続く管(耳管)の周辺の脂肪が減り過ぎて、耳管の内腔が広くなり過ぎたために、かえって耳のつまり感が強くなる病気だ。
体重減少、過労、ストレス、妊娠が主な原因だという。
ややこしいのは、耳管開放症とは真逆な耳管狭窄症と症状が殆ど同じ事だ。文字通り耳管狭窄症は耳から鼻に続く耳管が狭くなる病気だ。患者さんの訴えが全く同じなので、症状から鑑別するのは難しい。
耳管閉塞症は鼻がつまっている時(アレルギー性鼻炎、副鼻腔炎)等の鼻の異常に併発して起こるのが普通だ。又、気圧の変化(飛行機、登山、スキュウーバー)が関係している事が多いので、診断は比較的簡単だ。ティンパノグラム(鼓膜の振動検査)をすれば明確に診断する事が出来る。
開放症と狭窄症とは、その症状が殆ど同じなので混同されやすい。発生頻度からいえば、狭窄症の方が比べものにならない程に多い。
開放症は耳管機能検査を行えば、確定診断する事が出来る。自慢ではないが、この検査器具を備えているクリニックは藤沢市では当院以外にないだろう。開放症を診断する最も簡単な方法は、患者さんに、お辞儀の姿勢(頭を下にさげる)をして頂いた際に、耳のつまり感がとれるかどうかだ。頭を下げると耳のつまり感がとれ、頭を上げると、再び耳がつまってしまう事が確認されれば、耳管開放症と想像できる。そして、耳管機能検査を行い確定診断する。
過日、私の友人(患者さんではない)に、東京の路上で会った時、耳のつまり感のために、近所の耳鼻科で耳管通気療法を続けているが、一向に治らないと嘆かれた。私はその場で彼に頭を下げてもらい、耳つまり感が消える事を確認し、彼に開放症の疑いが濃厚である事を告げた。
後日、彼は大学病院で精査を受け、耳管開放症と診断された。路上で正確な診断した私は彼に深く感謝された。
つい先日、耳つまり感の強い患者さんが、私のクリニックを受診した。失礼な言い方だが、その方は小太りの女性で、体重はむしろ増加傾向にあるという。私は体重の事から、耳管開放症とは考えなかった。しかし、その患者さんは他の耳鼻科医で耳管通気療法を受け、余計に耳がおかしくなったという。私はその耳鼻科医の耳管通気の仕方が悪かったのだろうと思い、自分の耳管通気の腕の良いところ見せようと、通気を施行しようとした瞬間、隣で診察していた副院長から、“待った”の声がかかった。「他医の通気で余計悪くなったのなら、耳管開放症ではないのか?何故、得意な耳管機能検査をしないのだ?」。と、鋭く詰問された。その時、私は患者さんの体重の事から、耳管開放症の事は念頭になかった。あわてて、お辞儀の姿勢をして頂いたら、耳つまり感がとれるという。直ぐに、耳管機能検査(下のグラフ)をしたところ、典型的な耳管開放症だった。
その患者さんは、ご自分の苦痛の原因が耳管開放症によることを納得してお帰りになった。
副院長の助言がなければ、重大な診断ミスをおかしたところだ。
副院長(長女)から院長である私が教えられた事になる。将来は長女と次女に診療を任せる私としては喜ぶべきだろう。
2015年10月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第73話「哀しい別れ」
私は余話で、プリンの事を何回となく書いた。プリンが一番早く我が家の家族になったからだろう。
プリンが家族になった1年後、その遊び友達としてトイプードルが我が家の一員になった。名はサフィー。
サフィ-にはぬいぐるみのような可愛さがあり、すぐに、次女さゆり、家内のアイドルとなった。
更に翌年プリンが子供を二匹産んだ。プリンは授乳期を終わったとたん見事な迄に子離れをして、子供の面倒をまったくみなかった。
そのありさまを心優しいサフィーは見かねたのか、プリンの子供を母親代わりになって育てた。事実、自分が産んだかのようにサフィーはお乳が出た。本気で育ての親になったのだろう。
さて、我が家に来た時のサフィーは、人間の拳2個くらいの大きさで帽子の中に入れて自宅からクリニックにつれて行った。帽子の中にぬいぐるみを入れているようだった。
サフィーが2才位の時、私が海岸道路を抱きながら歩いている時、ヤンキーな若者の集団に囲まれた。
私は腕力には全く自信がない。一瞬ひるんだ。その内の一人が以外に丁寧な言葉で私に話しかけて来た。「抱いているのは何ですか?地面に下ろして良く見せて下さいませんか」。地面に下ろしたサフィーをなでながら、「これ、生きている犬ですか?」、笑いながら行ってしまった。サーファーの集団だった。
そのサフィーが昨年の12月17日、愛する次女の胸にだかれながら、老衰(14才)で苦しむことなく息をひきとった。
さゆりは今でも自分の枕元にサフィーの遺骨を置いている。
2015年11月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第74話「急性中耳炎と滲出性中耳炎」
いよいよ冬、中耳炎襲来の季節である。
正常な鼓膜は、夜空に輝く名月のように美しく光り輝いている。その鼓膜が痛みと共に急に赤く腫れあがる。急性中耳炎のはじまりだ。
耳鼻科専門医ならば、このような鼓膜を診れば急性中耳炎と診断する事は容易なことだ。患者さんは激しい耳痛に苦しむ。
そして、適切な耳鼻糧的治療をせずに放置すると、自然に鼓膜が破れて膿(うみ)が出てくる。
然し、急性中耳炎のような痛みを伴わない滲出性中耳炎という病気もある。痛みを伴わないために診断が難しい。僅かな鼓膜の変化をよみとらなければならない。
この微妙な鼓膜の変化は、耳鼻科専門医であったも見逃す事が多いようだ。
私は開業医の道を選んだ時、最初に考えたのは鼓膜の変化を正確によみとる“眼”、を持つ事の必要性だった。大学病院では中耳炎の患者さんに接することは少ない。そこで、私は慶応大学病院から直接開業することは愚と考え、日本で最高位の耳鼻咽喉科開業医の病院に勤務した。そこで数年、私は鼓膜所見を診る技術を習得し自信を得た。私が開業するために、その病院を退職する頃、2年先輩の耳鼻科医(某大病院勤務)が私の後任として就職して来た。彼も私と同じ考えで、数年後に開業する予定だった。その先輩がある日、私に声をかけて来た。「今、診ている赤ちゃんの鼓膜が中耳炎かどうか診て欲しい」。私が代わりに診察した。その赤ちゃんの鼓膜は非常に見えやすい構造をしていて、明らかな急性中耳炎だった。「切開したら膿が出ますよ」と、私がアドバイス。すぐに先輩が鼓膜切開して、「矢野君有り難う」、とお礼を言ってくれた。上下関係の厳しい医師の世界で、後輩が先輩にアドバイスするなど、希有のことだろう。
私は、今でもその先輩の人間性の良さを懐かしく思い出す。
急性中耳炎も滲出性中耳炎も圧倒的に乳幼児に多い病気だ。
我々耳鼻科医は鼓膜を診る前にその前段階として、耳垢を取らなければならない。ところが乳幼児は耳垢をとる時にあばれて動く。痛くて暴れるのではない。こわくて暴れ動くのだ。乳幼児の外耳道(耳の孔)は家庭用の綿棒がやっと入る大きさでしかない。暴れる乳幼児の小さな外耳道から、鼓膜を明視するために、耳垢をとるのが一苦労だ。耳鼻科専門医ほ耳垢を取る時に乳幼児を痛がらせる事はない。「怖がっているのが暴れている理由だ」、という事をご両親にご理解頂かなければならない。
そして、我々耳鼻科医は下記の器具を駆使して耳垢を除去する。
滲出性中耳炎の鼓膜の変化は極めて微妙で、そして、痛みがないため患児の訴えがなく、御両親も気付いていないことが多い。
そのため、微細な鼓膜の変化をみるために、私はクリニカライト(ハロゲンランプ、2.5×のレンズ装着)を常用している。
中耳炎の診断に欠かす事の出来ないものとして。ティンパノメトリーという耳の孔に当てるだけの簡単で精密な検査もある。この検査は、鼓膜の奥に粘液がたまっているかどうかを正確にグラフ化する。耳鼻科医の目による診断の誤りを正すだけでなく、そのグラフをご両親にお見せすることは、今後の治療の必要性を理解して頂くために必用だ。然し、大病院の指導的立場の学者の中には、ティンパノメトリーは診断には役立つのみで、治療に結びつかないから、施行する事はあまり意味がないと説いている人もいる。患者さん(この場合はご両親)への説明義務として、私はこの検査は是非とも必用と考える。乳幼児は痛みがなければ少々の不快感は訴えないので、御両親は我が子の耳が中耳炎にかかっていると思っていない事が多い。
次ぐにかかげる鼓膜の写真は良い例だ。
1才2ヶ月の赤ちゃんの鼓膜で、明らかに腫れあがっているのに、機嫌も良く発熱もないのでご両親は中耳炎になっているとは思っていなかった。説明にかなりの時間を要した。
患者さんの納得がなければ治療をすることは出来ない。この辺に大病院の医師と、開業医の考えに温度差を感じる。
最後に強調したいのは、いわゆる、“カゼ”をひいたら熱があってもなくても、耳鼻科専門医による鼓膜の診察を受けることが重要だ。
私は、専門医の義務として鼓膜の微細な変化の発見に日々立ち向かっている。
付記1;幸福にも当院は、ゆかり副院長、さゆり医師共に、乳幼児の中耳炎が多いクリニックでの診療経験が長いので、中耳炎の診断治療にはたけている。
付記2;中耳炎の詳しい説明については、ホーム頁の病気の説明の項をご参照頂きたい。
2015年12月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第75話「姉弟愛・姉妹愛」
私には、5人の姉がいる。私は6人姉弟の末弟だ。今でこそ皆年老いたが、若い頃は人目をひく仲の良い姉達だった。末弟の私を特に可愛がり特別扱いにしてくれた。
長姉は鵠沼海岸の疋田眼科の院長で、現在も一日に二冊の本を読破しパソコンにも堪能なスーパーウーマンだ。そして、私が開業の地を善行に見つけた時、資金面、精神面でも援助してくれた。私は今でもこの姉には頭があがらない。その詳細は、院長余話54話で述べているので、ここでは感謝している事のみ書いて終わりにする。
二番目の姉は特に心の優しい性格で、私の身のまわりを特に気遣ってくれた。“男の子のする事ではない”、と言って、ボタン付け靴磨き等全て引き受けてくれた。そのため、私は今でもボタン付けは出来ない。
某銀行の行員であった三番目の姉は、私が高校生になった時のお祝いに本格的な革靴(当時の高校生には珍しい)をプレゼントしてくれた。その銀行出入りの靴屋のすすめるままに、私は注文靴を作った。
その値段は6000円。その値を聞いて姉が一瞬青ざめたのを私は覚えている。その時の姉の給与が幾らだったか知らないが、長い月賦で支払ったらしい。それから、約15年後に私が地方の病院に出張した時の初任給が22000円であった事を考えると、姉に悪い事をしたと今でも後悔している。
私が医師国家試験を受ける前夜、四番目の姉(故人)は、大きな鯛の塩焼きを、五番目の姉はショートケーキ(私の大好物)を同時に買ってきてくれたので、嬉しい悲鳴をあげた事を覚えている。
今では、私がその年老いた姉達の健康管理をまかされている。
次は我が家の二人娘(ゆかり副院長・さゆり医師)の姉妹愛について述べる。二人は年齢差があるためか、はたから見ていていると、互いにそっけない。然し、約30年前のエピソードで私は二人の仲をみなおした。
車庫にとめてあったゆかり(今の副院長)の車が“当て逃げして逃亡した車だ“、と知らない女が警察に届けた。夜、警察官が私の自宅に調べにきた。後から聞いた話だが、ゆかりは自分の車が凹んでいるのを数日前から知っていて修理する予定だったという。運悪く警察官が来た時には、ゆかりが大学病院に乗って行ったために、我が家に車はなかった。警察の要請で夜10時過ぎに、我々夫婦と次女の3人で大学病院に車をとりに行き藤沢北警察に運んだ。車の中で私が、「長女が当て逃げ犯だったらどうしよう」、とつぼやいた。途端に次女が、「パパはお姉ちゃまが当て逃げをするような人と思っているのか!お姉ちゃまはそんな人ではない!」と、泣き出した。妹の言葉どうりで、警察では車を見ただけで無罪放免。後から聞くと、その女は当て逃げの常習的クレーマーだった。
2016年1月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第76話「インフルエンザ」
現在インフルエンザが猛威をふるっている。A型がB型より多いようだ。発熱後、24時間、少なくとも12時間以上たってからでないとインフルエンザテストは正確に判定できない。インフルエンザテストは鼻腔内に細いテスト用の綿棒を挿入しておこなう。
インフルエンザテストは綿棒を鼻腔内に入れるために、内科医や小児科医よりも耳鼻科医である我々の方が患者さんが痛がらない。テストが陽性に出たら、抗ウイルス薬を一刻も早く内服、或いは噴霧する治療を行う。
尚、一般的予防は手洗いだ。うがいを強調する人もいるが、うかいは殆ど意味がない。慶応の医学部時代の内科学講義で、「口中に入ったウイルスは数秒後には口粘膜下に侵入してしまう。いくら一生懸命にうがいしても、ウイルスを洗い流す事は不可能だ。うがいの効用は気持ちが良いだけだ。」私の学生時代に受けた講義だが、現在でも正しい知識だ。
以前は、テレビ、新聞、学校の洗面所の張り紙等に、書かれていた「ウガイ・手洗い」の文言が、「手洗い・ウガイ」と、順番が変わっている。
話は変わるが、2009年春、新型インフルエンザの襲来で国中が震撼としたことがあった。その時、藤沢市医師会員も医師の使命感にもえ、当番制で、保健医療センターの駐車場にテントをはり、急患に備えることになった。
保険医療センターの建物を使用せず、駐車場のテントで対応する事を指示した関係機関は、保険医療センターの建物内へのウイルスの進入を防ぎたかったのだろう。
そして、医師会から二人一組でテント内に待機するように指令が来た。二人一組とは、内科医一人と他科の医師一人だ。内科医が主役になるのは当然だ。他科の医師(眼科医、耳鼻科医等)は介助役をつとめる事になる。治療法が確立されていなかった新型インフルエンザの治療にあたることは、我々医師自身も感染することへの恐怖が強い。医師会の要請では、一医療機関から医師一人を派遣せよということだった。矢野耳鼻咽喉科は院長である私の他に、ゆかり副院長、さゆり医師の三人がいるが、私自身が犠牲になる覚悟で医師会に届け出た。私も二人目の医師としての義務を果たすことにやぶさかではなかった。大げさに言えば、文末に記してある“ヒポクラテスの誓い”に目覚めたと言えるだろう。
そういう私の気持ちに水をさした心ない内科医がいた。もう時効だが、彼の発言を私は生涯忘れる事は出来ない。彼の言葉を略記する。
内科医として診療の傍ら、専門外の医師を指導し、見張る事は面倒だ。足手まといだ。
私は直ぐに反論した。
見張るという文言は刑事が犯罪容疑者に対して使う言葉だ。又、指導される必用もない。我々が足手まといとは心外だ。
内科医だけでおやりになれば良い。私は協力するのを止めた。
目覚めかけたヒポクラテスの誓いが再び眠りにつきそうだ。
医師は、医師免許書を授与される時にヒポクラテスの誓いを心に刻む。
医師はその生涯を純粋と神聖を貫き医術を行う
良識ある内科医の説得で、私も愚か人の発言を無視して、テント内の医療に参加した。当日、保健医療センターのテントの下にいた内科医をみて驚いた。私の親友の内科医が笑みをうかべて待っていた。楽しく談笑している内に義務時間を終わった。
ヒポクラテス自身なら報酬を受けとらなかっただろう。私自身のことは忘れた。
2016年2月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第77話「春夏秋冬」
日本は四季の変化に富んでいる。春は桜、夏はひまわり、秋は銀杏、冬は梅の花等の美しさを楽しめる。
だが、私は哀しい事に花をめでる美的感覚に乏しい。そこで、自宅から見える桜の春夏秋冬の変化を自分への戒めとして写真にとり保存した。
然し医師として、季節の移り変わりを敏感に感じることは出来る。
4月、桜の花が咲き誇る前に、耳鼻科医はである私は、杉花粉の飛散で春が近づいた事を感じる。ゆううつな杉花粉症の始まりだ。花咲く春を花粉症の発症で知るとは複雑な気持ちだ。
夏は夏風邪(ヘルパンギーナ)、脱水症を含む夏バテ、クーラー病(正式な病名ではない)の患者さんが急増する。
秋になると、秋の花粉症の他に、朝晩の温度差に起因する体調不良の患者さんが急増する。耳鼻咽喉科的には鼻炎・咽頭炎・喉頭炎(内科小児科ではカゼと総称する)で発熱する患者さんが増える。又、めまい症、突発性難聴、及びそれに類する急性難聴の患者さんも増加する。
何となく“体調の不良”を訴える患者さんが増えるのもこの時期だ。
年の瀬がせまると、インフルエンザが多発する。そして、急性中耳炎のために、耳の異常を訴える乳幼児の患者さんが急増する。
四季の移り変わりを病気の変遷からのみよみとるのだから、医師としてのプロの目は自慢できるが、人間のセンスとしては何かもの悲しい。
2016年3月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第78話「恩人父子」
私には生涯忘れることのできない、というより忘れてはならない恩人父子の存在がある。
父上は三宅武雄先生、ご子息は三宅浩郷先生だ。
話は古く、1941年(昭和16年)に迄さかのぼる。私が慶応幼稚舎(小学校)に入学した最初の担任の先生が三宅武雄先生だ。1年生から3年生まで担任だった。6人姉弟(姉5人の末弟)として育った私は、学校という集団生活になじめず不安な日々を送っていた。何故かわからないが、おそらく今の学校教育では禁句になっているであろう“エコヒイキ”をして三宅先生は私に自信をつけて下さった。1年生最後の日、帰宅しようとしていた私を三宅先生が呼び止め、「来年度から君を級長にするからそのつもりでいなさい」、とささやかれた事を鮮明に覚えている。
それ以後、私は小学校生活が楽しくなった。そして、3年生まで担任を務めて下さった三宅先生は、その頃の日本国では非国民として非難されていた反戦思想で数人の先生方と共に退校を余儀なくされた。当然、担任の先生は変わった。そして、太平洋戦争が風雲急をつげ集団疎開が始まったが、母の希望で私は集団疎開をせずに、鵠沼海岸の湘南学園に数ヶ月間個人疎開をした。そして終戦、私は慶応幼稚舎に復学した。
担任の頃、三宅先生は後の慶応大学耳鼻咽喉科講師に就任された御子息浩郷先生(当時、慶応普通部・中学校)をお連れになり、私の自宅、夏は鵠沼海岸の別荘にたびたび遊びにみえた。
戦後の混乱、三宅家とのお付き合いもとだえた。
そして時がたち、私が慶応医学部に入学(1963年)し、インターン生として、慶応病院で耳鼻咽喉科の研修を受けた。その時、何年ぶりかで三宅浩郷講師にお会いした。怖いほど熱心に私を指導して下さった。三宅講師の強いすすめで私は慶応の耳鼻咽喉科に入局した。
そして、1969年に私は現在の地で開業、それと殆ど同時期に伊勢原に東海大学病院が設立され、その耳鼻咽喉科の初代教授として三宅浩郷先生が慶応から赴任なさった。
三宅先生のアドバイス(命令?)で、私は週一回東海大学の勉強会に出席し、東海大学の先生方とも親しくなる機会を持つことが出来た。そして、三宅先生も週一回数時間私のところで診療をして下さった。
更に重要な事は、三宅教授が北里大学医学部を卒業したゆかり副院長を、北里大学から東海大学にトレードして教育して下さったことだろう。
人生の長い経過の中で、三宅先生父子、私共父娘が師弟関係を持ち続けた事は奇跡に近いことだろう。
更に続けると、東邦大学医学部を卒業して東邦大学の耳鼻咽喉科に入局した次女さゆりを、東邦大学の小田教授に紹介して下さったのも三宅浩郷先生だった。
いくら狭い医師の世界でも、私のように恵まれた人間関係を築けたのは、ほとんど奇跡と言えるだろう。
残念だが、三宅武雄先生、三宅浩郷先生、小田先生も他界なさって久しい。
2016年4月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第79話「家庭における幼児の危険」
子どもを育てた親として、又、医師としての経験から私は幼児の周辺には危険が満ち満ちているとおもう。
最近、知人の孫(2才)が自宅のお風呂でおぼれて亡くなったという知らせがあった。いくら忙しくても2才の幼児から目を離すことは危険だ。
そこで、今回は私なりに感じている“幼児の危険な世界”をとりあげる事にした。
外出時、一番気にかかるのは、幼児と手をつながないで、道を歩いているお母さん達の多いことだ。親子は手をつなぎ、親は車道側を幼児は内側を歩くのが常識だろう。
さて、耳鼻科医として感じる幼児の危険を列挙する。
遊んでいる時、又、診察中に泣きながら口の中に飴玉を入れている幼児がいる。飴玉をのどにひっかけたら大変だ。
幼児がチュウインガムを嚙むのも危険だ。のどにひっかけたら大変だ。ガムを嚙みながら試合をしていたラクビーの選手がが、タックルされた瞬間にガムを気管にひっかけて死亡したのは有名な逸話だ。
ピーナツを食べそこない、気管経由で肺に入ると、悪性の肺炎になり死亡することがある。
安全ピンは幼児にとって、安全ではない。のどにひっかけると除去する時にピンの針先がのどに刺さって非常に危険だ。
幼児にとってボールペン 鉛筆 わり箸等尖った物は危険だ。歩きながら手に持って転ぶと体にささって死亡する事がある。
幼児が魚を食べる時は、ご両親は骨に気をつけて頂きたい。幼児ののどに刺さった小骨をとるのには苦労する。入院の上、全身麻酔が必用になる事さえある。すごく“高価なお魚“になる。
ストーブの上にやかんを置いて、お湯を沸かす習慣の家があるが、幼児がそれにつまずくとヤケドの危険がある。
絶対にやめて頂きたい事の一つだ。
私が耳鼻科医になって初めて慶応大学から出張した済生会宇都宮病院で、一人当直をしていた夜、硬貨を飲み込んだ急患が搬送されて来た。私は度胸を決めて一人で食道に引っかかっている硬貨を内視鏡でとった。何しろ医師になって二年目のこと、教科書上の知識しかなかったが、思ったよりスムースに除去できた。その時の嬉しさは強い記憶として残っているが、100円硬貨だったか10円硬貨だったか記憶がぼやけている。
除去した硬貨の所有権は飲み込んだ患者さんのものか、除去した医師のものか日本弁護士協会に質問しようと思ったがやめた。
2016年5月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮
第80話「耳鳴り」
最近、耳鳴りに悩んでいる患者さんが多いのは、日本の高齢化が進んでいるためだろう。そして難聴を併発しているケースが殆どだ。
老人性難聴は50代から始まると言われている。
余分な事だが、眼科領域では老眼のきざしは30代から見られるいう。私自身の経験でも、医学博士取得の論文作成に精魂を傾けていた30才位の頃、コンサイス辞典の細かい字を長時間見ていると目が疲れて困った経験がある。
さて、耳鼻科領域に話を戻すと、ジー・キ-ンという耳鳴りは高音部の聞こえない人、ゴ-ンという耳鳴りは低音部の聞こえない人に多いと言われている。
私は、耳鳴りの患者さんには、時間の許す限りていねいに対応しているが、その治療は難しい。
さて、私の母校の慶応大学医学部耳鼻咽喉の小川郁教授、済生会宇都宮病院の新田清診療科長が、耳鳴りの新しい治療方法を考案した。
要約すると、脳を耳鳴りの音に慣れさせる訓練療法で、TRT治療方法と名付けられている。
この治療方法には二つの柱があり、一つは耳鳴りの成り立ちを患者さんに十分説明して納得して頂く事、もう一つは音を使った音響療法だ。
音響療法の基本は、自然の音やノイズを聞き続けて、意識を耳鳴りからそらすように、訓練していくものだ。音響療法を家庭で行うには、ラジオやCDを使って周囲に音のある環境を作って、耳鳴りから注意をそらすようにする。耳鳴りで眠りにつけない人は、好きな音楽をラジオやCDで聞きながら、耳鳴りを打ち消して枕につけば眠りやすいだろう。
ただし、職場や友人との食事中にラジオやCDを使用することは不可能だ。そこで、サウンドジェネレーターという補聴器に似た器具を使用する。サウンドジェネレーターから、耳鳴りが少し聞こえるように調整したノイズを流して、耳鳴りを相対的に小さくする。
サウンドジェネレーターを使用した音響療法は耳鳴りそのものの改善が目的ではない。耳鳴りから注意をそらし、日常生活で苦痛を感じないようにするのが目的なので、効果自体にどうしても限界があるようだ。
そこで、根本的治療には補聴器を使用する。特別な補聴器ではなくて、国内で売られている一般的な補聴器で十分だ。
この療法では、サウンドジェネレーターによる治療とは異なり、耳鳴り自体を消失させる事を目的とするので、かなりの効果を期待できる。
「耳鳴りを音で打ち消す」、毒をもって毒を制する方法だ
先ず、患者さんの不安を打ち消すために、脳神経外科的検査で脳に病気がないことを確認して、患者さんが抱く耳鳴りに対する不安・心配を軽くして、更に、耳鼻科医による十分なカウンセリングで、耳鳴りそのものが危険でないことを、患者さんに納得して頂く事が必用だ。
サウンドジェネレーターは5~6万円、補聴器は片方の耳使用の補聴器で10万円くらい(両耳で20万円弱)の補聴器で十分だと言われているが、考えてみると決して安いものではない。
そして、補聴器を使った「聞こえの脳のリハビリテーション」を行うには、補聴器の適切な調整を行う優秀な言語聴覚士の協力が是非とも必用になる。そして、補聴器の音量をうるさいくらいに大きく設定して、基本的に音量を下げないで、就寝時以外は補聴器を外してはいけない。そして、耳鼻科医と言語聴覚士によるきめ細かい指導の下に、約3ヶ月間、週一回の通院が必用だ。
患者さんにとって、金額的にも時間的にもかなり負担の大きい治療といえるだろう。
然し、私のクリニックでは、「聞こえの脳のリハビリテーション」を十分に行う事は時間的に不可能だ。
そこで、耳鳴りに深い悩みをお持ちの患者さんは、慶応大学病院をご紹介することにしている。大学病院の受診には原則として、我々の紹介状が必用だ。
耳鳴りにお悩みの患者さんは、一度、矢野耳鼻咽喉科にご相談においで頂きたい。
「耳鳴りを音で打ち消す」、毒をもって毒を制する新しい耳鳴りの治療方法をご紹介した。
ジージー耳鳴りに悩む高齢の方へのひそかな慰めの言葉
同窓のよしみで、新田清一著「耳鳴りの9割は治る」を参考にした。
2016年6月1日 矢野耳鼻咽喉科院長 医学博士 矢野 潮